君子之処世(君子の世に処する)(「六如居士全集」)
もう終わったことですが、君子は現世にどう対処すればよかったのかなあ。次回・・・は無いので、みなさんのために調べてみましょう。

見つからなければ何してもいいのでゴン! ・・・というような考えの人もいるかも知れませんが。
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明の六如居士・唐寅が言いますには、
君子之処世、不顕則隠。隠顕則異、而其存心済物、則未有不同者。
君子の世に処するや、顕かならざれば隠る。隠顕は則ち異なれども、その心を物を済(すく)わんとするに存し、いまだ不同なるもの非ざるなり。
われわれ君子人が現世に対処していく際には、有名でないなら、隠れて目立たないようにしていることだ。隠れると有名とは別物だが、どんな状況でも自分の心は他人や他の物事を何とかうまく回らせようとしているんだから、その本質において同じではないということなんて無い(同じである)。
苟無済物之心、而泛然雑処、于隠顕之間、其不足為世之軽重也必然矣。
苟しくも済物の心無く、而して泛然として雑処せば、隠顕の間において、その世の軽重為すに足らざるもまた、必然なり。
仮にも「物事を何とか回らせようという気持ちもなく、ふわふわと浮ついたままで真剣な対処をしないなら、隠れていようと有名であろうと、世の中から重んぜられたり軽んぜられたりといった評価を受けるに足らないとされるのが、当たり前であろう。
余又竊自謂曰、朱君于余、友也。君隠于菊、而余也隠于酒。
余もまた竊(ひそ)かに自ら謂いて曰く、「朱君の余におけるや、友なり。君は菊に隠れ、而して余は酒に隠る。
わたしもまた、内密にこんなことを言っている。
―――わしと朱なんとか君(この手紙を送る先)とは、友だちである。君は菊を趣味にして、現世と関わらない。そして、わたしは酒に溺れて、現世と関わり合わないようにしている。
君とわたしは、
対菊令酒、世必有知陶淵明、劉伯倫者矣。
菊に対し酒に令すれば、世は必ず陶淵明、劉伯倫を知る者有らん。
菊に向かい合い、酒を飲む際の礼儀を楽しむのである。世間には必ず、六朝の飲酒詩人・陶淵明とか、竹林七賢の一人で酒浸りだった劉伯倫のことを知っている者もいよう(から、いろいろ噂を立てられるかも知れないが、まあいいではありませんか。)」
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明・唐寅「六如居士文集」より「菊隠論」。この間までは花の下がいいなあ、と思っておりましたが、菊の籬もいいですね。朝顔の季節もそろそろ来るなあ。
今日も深夜に。生成AIさえ使えれば全部やってもらえるのに。