4月21日 カロリー摂取しないとくらくらする

其止不容(その止、容ならず)(「明語林」)

こういうのばかり読んでると頭にかすみかもやがかかってきて、愚かになってしまいます。わたしもそのせいでこんなに・・・。

なんにしろカロリーとらないとはじまらないでぶー。

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いずれも明の人たちのお話です。

永楽年間に順天府尹(首都長官)務めた陳諤は、

嘗奏時、声響洪徹、聴者颯然。

「颯然」(さつぜん)は風が過ぎ去ったあとのさっぱりとした様子。

「声がでかいな」

と感心した皇帝は、

令餓之数日、奏対如前。乃曰爾賦自殊耶。

と。

それ以降、

毎呼為大声秀才。

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奪門の変(1457)の首謀者の一人として悪評高い徐有貞は、かつて宰相に任命が噂されていたが、

其止不容。

このため、任命が見送られてしまったのである。

正統帝は彼が退出すると、よく左右の者におっしゃった、

惜有貞之寡命也。

と。

許彬堂老人が宮中の内閣殿に出勤してきた際に、

会雪、踣于地、扶服而登。

この時、

徐有貞側項大噱。

というような人柄が、どうしても受け入れられなかったようです。

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清・呉粛公「明語林」巻九・容止篇より。「容止」は一般に「立ち居振る舞い」「行儀」の意です。みなさんもひと様からどう見られてるか、気をつけてください。出世を望まれるひとだけ、ですけど。

ちなみに陳諤は、ある時、帝の怒りを買って北京・奉天門の外に穴埋めにされたが、七日経っても生きていたので、釈放され、大用されるようになったという(「明史」巻162本伝)。如何にも明初の荒々しい士風の中に生きていた人だと感心させられます。

「容止」篇には次のようなお話も入っているので、単なる「立ち居振る舞い」というより「見てくれ」というコトバの方が近いのかも知れません。

・・・慶成王・朱済炫は太祖の孫に当たり、洪武十七年(1385)の生まれ、亡くなられたのは宣徳四年(1429)、満年齢で46歳で薨去されたのですが、その長いとも言い切れない人生において、

生百子。

長襲王、余九十九人并鎮国将軍。毎会紫玉盈坐、至不能相識。

而人倶龍準。

「龍準」は「隆準」(りゅうせつ)と同じ、鼻梁が高く通っていることで、漢の高祖以来、皇族の人相であるとされる。

のだそうです。

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