其止不容(その止、容ならず)(「明語林」)
こういうのばかり読んでると頭にかすみかもやがかかってきて、愚かになってしまいます。わたしもそのせいでこんなに・・・。

なんにしろカロリーとらないとはじまらないでぶー。
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いずれも明の人たちのお話です。
永楽年間に順天府尹(首都長官)務めた陳諤は、
嘗奏時、声響洪徹、聴者颯然。
嘗(つね)に奏時、声響洪にして徹し、聴く者颯然たり。
「颯然」(さつぜん)は風が過ぎ去ったあとのさっぱりとした様子。
いつも上奏を行う時、声が大きくて響き渡り、聴いた者は気分がさっぱりとしてしまうのであった。
「声がでかいな」
と感心した皇帝は、
令餓之数日、奏対如前。乃曰爾賦自殊耶。
これをして数日餓えしむるに、奏対前の如し。すなわち曰く、爾の賦、おのずから殊なるや、と。
彼に数日何も食べさせずにおいたが、上奏・応対の声はいつもどおりであった。そこで、帝はおっしゃった、
「おまえは生まれつき特殊な能力を持っているのだ」
と。
それ以降、
毎呼為大声秀才。
つねに呼びて「大声秀才」と為す。
いつも、彼のことを「大ごえ秀才くん」と呼んでいた。
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奪門の変(1457)の首謀者の一人として悪評高い徐有貞は、かつて宰相に任命が噂されていたが、
其止不容。
その止、容ならず。
その立ち居振る舞いがよくなかった。
このため、任命が見送られてしまったのである。
正統帝は彼が退出すると、よく左右の者におっしゃった、
惜有貞之寡命也。
惜しむらくは有貞の寡命なることを。
惜しいことに、徐有貞は(能力や野心はあるのだが、行儀がよくないという点で、)ひきが弱いんだよなあ。
と。
許彬堂老人が宮中の内閣殿に出勤してきた際に、
会雪、踣于地、扶服而登。
雪に会い、地に踣(たお)れ、服を扶けて登る。
ちょうど雪が降っていて、滑って大地に倒れてしまった。ひとびとが着ているものを引っ張って助け上げ、御殿に昇らせた。
この時、
徐有貞側項大噱。
徐有貞、項を側めて大噱せり。
徐有貞は、首を斜めにして大笑いしていた。
というような人柄が、どうしても受け入れられなかったようです。
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清・呉粛公「明語林」巻九・容止篇より。「容止」は一般に「立ち居振る舞い」「行儀」の意です。みなさんもひと様からどう見られてるか、気をつけてください。出世を望まれるひとだけ、ですけど。
ちなみに陳諤は、ある時、帝の怒りを買って北京・奉天門の外に穴埋めにされたが、七日経っても生きていたので、釈放され、大用されるようになったという(「明史」巻162本伝)。如何にも明初の荒々しい士風の中に生きていた人だと感心させられます。
「容止」篇には次のようなお話も入っているので、単なる「立ち居振る舞い」というより「見てくれ」というコトバの方が近いのかも知れません。
・・・慶成王・朱済炫は太祖の孫に当たり、洪武十七年(1385)の生まれ、亡くなられたのは宣徳四年(1429)、満年齢で46歳で薨去されたのですが、その長いとも言い切れない人生において、
生百子。
百子を生ず。
子ども(男の子だけ)が百人いた。
長襲王、余九十九人并鎮国将軍。毎会紫玉盈坐、至不能相識。
長、王を襲い、余の九十九人は并せて鎮国将軍たり。毎会に紫玉坐に盈ち、相識能わざるに至る。
長男が王位に即き、あとの九十九人は全員(皇族の武官に与えられる)「鎮国将軍」の称号を持っていた。兄弟の集まりがあると、(将軍のしるしである)紫の玉が部屋いっぱいになるのだが、地位でも区別できないので、兄弟同士、誰が誰かわからなかった。
而人倶龍準。
而るに、人ともに龍準なり。
「龍準」は「隆準」(りゅうせつ)と同じ、鼻梁が高く通っていることで、漢の高祖以来、皇族の人相であるとされる。
けれども、兄弟全員、鼻梁が通った「龍の顔立ち」をしていた。
のだそうです。