随喜讃嘆(随喜し、讃嘆す)(「竹窓随筆」)
随喜したり讃嘆したりすると気持ちいいと思います。どんなときに随喜したり讃嘆したりできるものなのでしょうか。

随喜は〇〇〇〇のときにするのでは?讃嘆は「Oh!Utamaro!」だぜ。
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今は明代ですが、おまえさんは、毎日毎日、
見人飭躬立徳、名称頗聞、便多方求覔其過。
人の、躬を飭(ただ)し徳を立て、名称頗る聞こゆるを見て、すなわち多方にその過ちを求覔(きゅうべき)す。
「飭」(ちょく)は、「力を入れてものを固める」意です。そこから、「ただす」とか「ととのう」と訓じます。「名称」は「名の称えらるること」「よい評判」です。
誰かが、自分の行動をきちんと正し、人徳を磨き、たくさんよい評判が立つようになると、いろんな面からその過ちを探し求める。
そんなことをしていませんか。
此忌心也。薄道也。
これ忌心なり。道を薄うするなり。
これは忌々しい嫉妬の心である。こんなことでは、ひととして則るべき道を、どんどん削ってしまうことになる。
或見人有所著述、其求過也亦然。
或いは人の著述する所を見て、その過ちを求むるもまた然り。
また、誰かが著述したものを見て、その中の過ちを探し出そうとするのも、同じである。
おまえさんがもしそんなことをしているとしたら、
不知、聞一善行、覧一好書、皆当随喜讃嘆、而反掩之滅之、是誠何心哉。
一善行を聞き、一好書を覧(み)ば、みなまさに随喜讃嘆すべきことを知らず、反ってこれを掩いこれを滅す、これ誠に何の心ぞや。
何か一つでも他人の善き行いを聞いた、また、良き本を読んだ、これらはみな、まさに、それによって喜び、讃嘆の声をあげるべきことである。ところが、おまえさんはその当たり前のことを知らずに、却って善行や好書を隠し、潰そうとしているのだ。これはどういうつもりなのか。
説教がうるさくなってきましたので、
「でも、世の中にはひどい人もいるし、ひどい本もあるではないですか」
と反論してみた。
「も、もちろん、悪いのもありますぞ」と少し弱気になったみたいで、
若果行係偽行、書係邪書、自応正言公論、明斥其非。又不当半褒半譏、依阿進退。
もし果たして行いの偽り行うに係り、書の邪書に係れば、おのずからまさに正言公論して、その非を明斥せよ。また半褒半譏し、進退を依阿すべきにはあらざるなり。
もしも(その人の)行いが、(善に見えて実は)偽りの行動であったり、書物が邪悪な書物だったりするなら、それに対して正々堂々と公衆の面前で批判して、そのいけない点を顕かにして退けるべきである。半分はいいけど半分は悪いと言って、(えへえへと)中途半端にどっちつかずでいてはいけませんぞ。
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明・雲棲袾宏「竹窓随筆」より。人の善行や著書を見たら、随喜讃嘆しなければいけません。あらさがしなど以ての外じゃ!と雲棲禅師はおっしゃっています。後の方では偽行・邪書ははっきり批判しろ、と言い出していますが、これは人や本の過ちを探し求めているのと何が違うのか。修行したらわかるのかも。・・・まあ文句ばかりつけずに、雲棲禅師のことばをじっくり味わってみてください。人を粗さがしして悪いところばかり見ていてはいけないんです。しかし、悪には決然と怒らねばならない・・・と取っていただければ。
世の中には、こんないい本も出てるみたいです。