沈憂令人老(沈憂は人をして老いしむ)(「文選」)
本日は「肝冷斎はなぜそのように老け込んだのか」とお問い合わせがありました。それは・・・。

転がり続ける人生だ。
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あの「転がりヨモギ」をご覧なされよ。
転蓬離本根、飄颻随長風。
転蓬は本根を離れ、飄颻(ひょうよう)として長風に随えり。
転がりヨモギはもとの根を離れて、ふらふらと遠い風に流されていく。
「転蓬」あるいは「飛蓬」は英語でいう「テンブル・ウィード」です。アメリカ大陸にも生えていて、ヨモギの一種なんですが、根っこからごろんと抜けて、風に吹かれてごろごろ転がり、飛ばされていくんだそうです。
「飛蓬乗風」(飛蓬、風に乗ず)というと、どんどん出世していくことを喩える場合もありますが、「転蓬」の場合は、放浪する旅人の譬喩以外には使われません。
この転がりヨモギ、そのうちそのあたりに転がって根付いていくのかと思っていたが、
何意迴飇挙、吹我入雲中。
何の意ぞ、迴飇(かいひょう)挙がり、我を吹きて雲中に入れり。
どういうことか、つむじ風が起こって、わたし(ヨモギ)を雲の中まで吹き飛ばしおったのじゃ。
高高上無極、天路安可窮。
高高として上りて極まり無く、天路はいずくにか窮まらん。
高だかと昇ってどこまでいくのであろうか、天の旅路には行きつく先はないのだ。
もう帰ることもない転がりヨモギよ。おまえは、
類此游客子、捐躯遠従戎、
毛褐不掩形、薇藿常不充。
類す、この游客の子の、躯を捐(す)てて遠く戎に従い、毛褐(もうかつ)も形を掩わずして、薇藿(びかく)も常に充たざるに。
そっくりではありませんか、この旅ゆく人(であるわたし)が、身体を労わることなく遠く軍事に従事して、
毛皮の短衣は体全体を覆ってくれず、わらびやマメ類の葉っぱさえ、腹いっぱいには手に入らないでいるのに。
でも、
去去莫復道、沈憂令人老。
去り去りてまた道(い)う莫れ、沈憂は人をして老しむれば。
どこかに行ってしまってもうこれ以上語るのはよそう、深い憂鬱はひとを老いさせてしまうのだから。
つまり、深い憂鬱がわしを老いさせたのでございます。
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魏・曹植「雑詩」二(「文選」所収)。「風」「中」「窮」「戎」「充」まで隔句押韻で同じ韻を踏み、最後の二句だけ「道」「老」と別の韻に替わる、という「楽府」の常道を守った詩なのだそうです。
最近は憂鬱が無くなってきたので、にやにやして過ごしておりますけどね。