好書三病(好書の三病)(「五雑組」)
手に入れてネグレクトするタイプは、この三タイプ以下である。

漢籍専門では未来はないが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
好書之人、有三病。
書を好むの人に、三病有り。
書物が好き、と言っている人には、三つのダメなタイプがある。
其一、浮慕時名、徒為架上観美、牙籤錦軸、装潢炫曜、驪牝之外、一切不知。謂之無書可也。
その一、時名を浮慕し、徒らに架上に観美を為し、牙籤(がせん)錦軸(きんじく)、装潢(そうこう)炫曜(げんよう)驪牝(りひん)のほか、一切知らず。これを「書無し」と謂うも可なり。
一番目は、一時の名声を浮ついた気持ちで求め、無意義なことに書架の上をきれいに見せ、象牙の書物札をつけ、巻物の表紙を錦にし、装幀はメスの黒馬にように黒光りさせる―――それしか考えていないのでは、これは「書物を持っていない」(書物として扱ってない)と言われてもおかしくない。
なんと。本を美麗にしてはいけないようです。汚い方がいいのかな。それなら得意だが・・・。
其一、広収遠括、畢尽心力、但図多蓄、不事討論、徒涴灰塵、半束高閣、謂之書肆可也。
その一、広く収め遠く括し、心力を畢尽して、ただ多蓄を図り、討論を事とせず、徒らに灰塵に涴(よご)し、高閣に半束す。これを「書肆」(しょし)と謂うも可なり。
次のタイプは、手広く遠くから集め、精神力をすべて尽くしてただたくさん蓄えることだけを考え、読んで考えるなどということはせず、いたずらに塵やほこりで汚れるままに、二階三階の書庫に緩く束ねてしまいこんでいるようでは、これは「本屋さん」(持っているだけで読まない)と言われてもおかしくない。
きたなくしてもいけないとは。やられました。
其一、博学多識、吃吃窮年、而慧根短浅、難以自運、記誦如流、寸觚莫展、視之肉食面墻、誠有間矣、其没世無聞、均也。
その一、博学多識にして吃吃と窮年するも、慧根短浅、以て自ら運らすに難しく、記誦流るるが如きも、寸觚も展ずる莫し。これを視るに肉食して墻に面し、誠に間有るも、その世に没して聞こゆる無きに均しきかな。
第三タイプは、いろんなことを広く、多く知っていて、こつこつと年をとるまで勉強しているのだが、本来的な頭の働きが弱いので、自分で考えることは得意ではない。記憶して暗唱させれば流れるように覚えるのだが、木簡を広げて少しでも自分の考えを記すことはないようでは、ごちそうを食べておいて垣根に向かったままで、本当にヒマで、世間から知られることもなく消え去っていくのと何の違いがあるのか、と見られるだろう。
夫知而能好、好而運、古人猶難之、況今日乎。
それ、知りて能く好み、好みて運らすは、古人すらなおこれを難しとす、況んや今日をや。
だいたい、物事を知るだけでなくそのことを好きになり、好きになるだけでなく自分で展開させる、ということは、いにしえの賢者たちでもなかなか難しいことだと考えていたのである。それを時代精神の劣った現代の我々がたやすくできるはずはない。
第三タイプまで来れば、普通の人はぎりぎり合格では。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
明・謝肇淛「五雑組」より。難しい文章でしたが、なんとか乗り切った。自信になります。
書物を持っている人のダメタイプスリーと言うより、最後の、「昔の人も出来なかったことを現代(明の時代です)人ができるか」ということの方に重みがあるのでしょう。我々のような欧米の知識もあるグローバルスタンダードな現代人になれれば別ですけどね。はははは・・・とか、みなさん思っていませんか?
うーん。4000円のうどんを家族で?修学旅行の中学生が?どういう人たちが考えたのかと疑問に思ってしまいましたので、みなさんとは別行動します。思い出をそんなところで作るタイプの人は行きましょう。何たら効果だけで世界を見ている人はもちろん責任取って行ってください。わたしはまた後で合流したい・・・と思います。