居今行古(今に居りて古えを行う)(「後漢書」)
そんなことができるのでしょうか。

花を咲かせたりこぶを取ったりはできるが、この末代の世に、いにしえの道義を行うことができるだろうか。
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後漢の任安、字・定祖は、広漢・綿竹(四川・徳陽)の人である。若いころに都・洛陽の太学に入り、東海・孟氏の易学を学び、兼ねて他の経典のいくつかにも通じた。専門に通じて、さらにいろいろ世界を広げたんです。
また、同じ郡の楊厚に
学図讖、究極其術。
図讖を学び、その術を究極す。
「図讖(としん)の術」は、数秘術などを使って未来を予言する方法です。
未来予言の術を学んで、それを究めた。
時人称曰、欲知仲桓問任安。又曰、居今行古任定祖。
時人称して曰く、「仲桓を知らんと欲せば任安に問え:と。また曰く、「今に居りて古えを行うは任定祖」と。
時のひとたちは誉め讃えて言った、
「仲桓のことを知ろうと思ったら、任安に訊いてみろ」
また言った、
「現代に生きているが昔のすぐれた時代のことを行える、それが任定祖(字で呼んでいる)だ」
と。
「仲桓」というのは優れた術を使う人の名だと思うのですが、これがどんな人なのか分かりません。まだまだ学ばねばならないことが多いです。
学終、還家教授、諸生自遠而至。
学び終わりて、家に還りて教授するに、諸生遠きより至れり。
学問を終えて郷里に帰って塾を開いたところ、学生たちが遠いところからやってきて学んだ。
その名がさらに高まったので、
大尉再辟、除博士、公車徴、皆称疾不就。
大尉再辟し、博士に除し、公車にて徴(め)さるも、みな疾を称して就かず。
大尉(総理大臣クラス)から二回招かれ、太学の博士(国立大学教授)として、朝廷差し回しの車で召されたが、二度とも病気だと行って上京しなかった。
その後、
州牧劉焉表薦之、時王塗隔塞、詔命竟不至。
州牧・劉焉これを表薦するも、時に王塗隔塞され、詔命ついに至らず。
蜀の太守・劉焉が彼を皇帝に推薦したが、この時にはもう後漢末の混乱期で、都への道が隔てられて塞がっており、皇帝からの招きに詔はとうとう来なかった。
皇帝からの招きなら出かけたかも知れなかったのに、惜しいことでした。
年七十九、卒于家。
年七十九、家に卒す。
数え歳七十九歳で、自宅で亡くなった。
時に建安七年(202)であった。
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「後漢書」巻七十九上「儒林列伝」より。今に居りて古えを行う(現代に生きているが昔のすぐれた時代のことを行える)、というのはどんなことなんでしょう。ちょんまげで生きてたりしたのであろうか。確かに有名にはなれそうです。みなさんは出来るかな?