此語激神(此の語、神を激す)(「庸閒斎筆記」)
今日もうまく更新できなかったのだ(←その後、4月17日に三日ぶりに成功)、もうこんなブログなんか止めて・・・むぐぐ、あ、いや、なんでもございません、ああ楽しいなあ、前向きに生きるのは・・・と、表面は怒っていないように見せることはできます。

われわれ神仏は、たいていのことは、なんとかするよ! 少々妥協は必要だけど。
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上海郊外の青浦県の城隍神(町の守り神)は、明の時代に太守であった沈恩という人である。この人は清廉で節義を重んじ、地元の人たちにたいへん信頼されたといい、亡くなって神となってからも、祈れば何らかの対応をしてくれると言って、人々はたいへん信頼を寄せていた。
ある時、蘇州の人が用務で来訪し、城隍神を祀る宮に散歩に来て、非礼なことをしたことがあった。(立小便とかそんなことであろう。)
すると、
是夜、忽哀号叩首、遍身杖痕、其従者亟命舟載帰、未及家即死。
この夜、たちまち哀号して叩首し、遍身に杖痕ありて、その従者ついに舟に命じて載帰するに、いまだ家に及ばずして死せり。
その日の夜、その人は、突然「ゆるしてくだされ」と叫び始めた。あっという間に体中に杖で叩いたようなみみずばれができた。従者がすぐに舟を手配をして、クリークを通って蘇州に帰ろうとしたが、なんとか家に近づいたところで、とうとう死んでしまったのであった。
このことは青浦県誌にも書いてあるが、こういうふうに怒ると祟る神さまでもあったのだ。
公墓在上海。青浦人恒據資前往修理。至今不廃。
公の墓は上海に在り。青浦の人、恒に資を據して前往して修理す。今に至るも廃せざるなり。
この人の実際のお墓は上海の本城の中にある。青浦のひとびとは、おカネを出し合って定期的にこのお墓の修理を行ってきた。現代(清の末)でもかわりない。
わたしは、この青浦で二年ほど知事をしていたが、
遇暘雨不時、往禱輒通。
暘雨の不時なるに遇うに、往きて禱ればすなわち通ず。
晴れたり降ったり予想もつかなくなってきたとき、城隍神のお宮に行って祈祷すると、必ず願い事が通じた。
同治己巳年(1869)の六~七月は雨がよく降った。県庁は当時低湿地にあったので、周囲の民家とともにいつ沈んでしまってもおかしくないほどであった。このころわたしはもう年齢も六十に近かったので、
死不為夭、顧将己之生年為民請命、倘可挽回、殞身不恨。
死するも夭と為さず、顧みて己の生年を将ちて民のために命を請いて、倘(も)し挽回すべくんが、身を殞(ころ)すとも恨みず。
「今死んでももう若死にと言われる歳ではない。よく考えてみて、自分の残った命の年数を削って、人民たちの命を救うことを願い、それでうまく行ってくれるなら、自分が死んでも恨みはない」
と、本心から、
祝畢、乃起立再白神、謂、我志如是。特恐神不能代達天聴耳。
祝し畢わりて、すなわち起立して神に再白し、謂う、我が志かくの如し。特(ただ)に恐るは、神、代わりて天聴に達する能わざることのみ。
祈り終わって、立ち上がって神にもう一度申し上げた、
「わたしの気持ちはこのとおりです。今の心配は、神よ、おまえさんがわしに代わって天の上の方のおかたたち(城隍神よりずっと高い地位にある)にわしの願いを届けてくれぬことじゃ。わかっとるのか!!」
と。
時陸文魚署教諭事。
時に、陸文魚、教諭の事に署す。
この時、陸文魚という人が、県の学校の先生をしていた。
その彼が
笑曰、君方求神、乃作此語激神乎。
笑いて曰く、君まさに神に求むるに、すなわちこの語、神を激するを作さんか。
笑って言った、「知事どの、おまえさんはちょうど神さまにお願いする立場にあるのに、それがこんな脅し言葉で神さまに禱るとは、わざわざ神さまを怒らせようとけしかけているのではないか」と。
然自此雨勢漸止、余亦無恙、是殆会当晴霽、故余得苟全性命耳。
然るに、これより雨勢漸く止み、余また恙無し、是、ほとんどまさに晴霽せんとするに会えるか、故に余得てかりそめに性命を全うせしのみならん。
少し焦ったが、それなのに、このあと雨の勢いはだんだんと弱まり、わしも無事でいる。思うに、これは、わしが祈ったのが、ちょうど雨が止むときだった、というだけで、おかげでわしは、今も命を保って生きていられるのかも知れない。
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清・陳其元「庸閒斎筆記」巻三より。わざわざ怒らせてはいけませんよね。神さまに祈ることで人間としての努力を減らせるならいいのですが、祈りは別として努力はしなくてはいけない場合も多いので、みんな祈ることを忘れてしまうのであろう。