山高而不崩(山高くして崩れず)(「管子」)
万博が始まりました。今日の地上波放送はこれまでの危惧を止めて慶賀一色ですね。いろんな問題、噴出してくるのかどうか、メディアの扱い方如何、など楽しみだなあ。

おれの経験では、あんまり露出せずに隠れていると、威厳を保つことができるんでリュウ。
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山高而不崩、則祈羊至矣。淵深而不涸、則沈玉極矣。
山高くして崩れざれば、すなわち祈羊至る。淵深くして涸れざれば、すなわち沈玉極(いた)る。
山が高くて、崩れずにいるなら、やがて(信仰の対象となって)犠牲のヒツジが集まってくるだろう。淵が深くて、水が涸れずにいるなら、やがて供物として静められる玉が増えてくるだろう。
他より抜きんでたものは、その状態を保持していれば、威厳を持つことになるのだ。
天不変其常、地不易其則、春秋冬夏、不更其節、古今一也。
天はその常を変えず、地はその則を易えず、春秋冬夏はその節を更えず、古今一なり。
天はいつもどおりそこにあり、地上の物理法則には変化が無い。春・秋・冬・夏の季節は暦どおりやってくる。これらは、むかしも今も変わらないことだ。
また、
蛟龍得水、而神可立也。虎豹得幽、而威可戴也。
蛟龍は水を得て、神立つべきなり。虎豹は幽を得て、威戴くべきなり。
水龍は水の中にいると、神秘の能力を発揮する。トラやヒョウは山中の奥深くにいると、その威力は頭を挙げられないほどである。
これは軽々しく自分の境域から出て来て権力を振りかざしてはいけない、そんなことをすれば権威を失ってしまうだろう、と言っているのである。
風雨無郷、而怨怒不及也。貴有以行令、賤有以忘卑。
風雨には郷無きも、怨怒及ばず。貴の以て令を行う有り、賤の以て卑を忘るる有り。
風や雨には方向性が無いが、(ひいきをするわけではないから)怨みや怒りを受けることはない。(このように、公平無私であれば)身分の高い者は自分の命令を行き渡らせることができるであろうし、身分の低い者は為政者とともに働いている気持ちになれるのである。
寿夭貧富、無徒帰也。銜命者、君之尊也。受辞者、名之運也。
寿夭・貧富は、いたずらに帰する無きなり。命を銜(ふく)む者は君の尊あればなり。辞を受くるは名の運なり。
長生きすると短命に終わると、あるいは貧乏であると富貴であると、それらは意味なくそうなっているのではない。何かの理由があるものなのだ。同様に、えらい人の命令をみんなが聞くのは、命令者が尊敬されているからだ。告げられた言葉をみんなが拝受するのは、命令者に名声があるからである。
公正であれば、命令は聞かれる。
かくして、
上無事則民自試。抱櫝不言、而朝堂既修。鴻鵠鏘鏘、唯民歌之。
上無事なればすなわち民は自ら試む。櫝(とく)を抱きて言わざるも、朝堂既に修まらん。鴻鵠(こうこく)鏘鏘(そうそう)たるに、ただ民のみこれを歌う。
為政者が無理なことをしなければ、人民の方が自分たちでいろいろやりはじめるもので、宝箱を(開けないでも)抱えたままで何の指示もしなくても、朝廷の大会議室はよく修まるようになる。大きな鳥が空の上で「こうこう」と鳴く時、ひとびとはそれに唱和して「こうこう」と歌うだろう。
為政者と人民が思いを一つにすることを期待しているのである。
逆に、
済済多士、殷民化之、紂之失也。
済済(せいせい)たる多士、殷民これに化するは、紂の失なり。
「詩経」に、「(周の文王のもとには)サムライたちがずらずらと並ぶ」と歌われるが、攻められた殷の人民たちが、みんな周に降伏したのは、(単に周の人材の方が優れていたからではなく)殷王の紂の失敗で人々の心が離れていたからである。
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「管子」形勢篇より。古代の名言集みたいなぶつぎりの文章ですが、一応スジは通っていて、人民を不安にさせるな、そのためには為政者は正統性を持つ必要がある、公平であれば正当性は保たれる、みたいなことです。しかし、東洋の古代のアンシャンレジームのひとの言うことだから参考にならないかも。在野の立場から見ていると、そんな言葉を振りかざしていると何か別のことを見失っていそうな気がするかも。