落鑊湯中(鑊湯の中に落つ)(「山谷題跋」)
今日こそは言ってやる! と思ったのだが・・・。

おれたちのように強くなれ。
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北宋の終わりごろのことですが、晃和尚という坊主がいた。
老晃相識三十年。
老晃と相識ること三十年なり。
わしが、老いぼれの晃和尚と知り合ったのはもう三十年も昔だ。
そのころもう老いぼれみたいなやつだったので、
竊意已落鑊湯中、輸他牛頭阿旁。
竊(ひそ)かに意うに、已に鑊湯(かくとう)の中に落ち、他の牛頭(ごず)の阿旁に輸(おくら)れんと。
「鑊」(かく)は「足のないなべ」、要するに「釜」です。「牛頭」(ごず)は「馬頭」(めず)とともに、地獄の獄卒だぜ。
勝手に、(もうとっくにこの世からおさらばして、)地獄の釜の湯の中、あの牛頭どものかたわらに落ちて行ったのだろう、と思っていた。
わしはこのたび左遷されて、河南に行くことになった。
道出葉県、懸馬広教寺中。
道、葉県に出で、馬を廣教寺中に懸く。
道中、河南・葉県を通るので、わしは馬を県の廣教寺につない(で、宿泊したの)だ。
そこで、なんと、
見晃、如平生。
晃の、平生の如きを見る。
晃和尚が、むかしのように生きていたのを発見したんじゃ。
まさか、一回も死んでないということはあるまい。
問、渠何術自済、乃能如此。
問う、渠(かれ)、何の術にて自済して、すなわちかくのごときを能くするや。
わしは訊いた、
「おまえさん、どういう術を使って自分を(地獄から)救い出して、こんなふうに生きることができているのか?」
笑曰、吾飲酒時、十方世界皆同一味。吾喰衆生時、皆令入無余涅槃而滅度之。
笑いて曰く、吾、飲酒の時は十方世界みな同一に味わう。吾、衆生を喰らうの時は、みな無余涅槃(むよねはん)に入れてこれを滅度せしむ。
和尚は笑って言った、
「わしは酒を飲む時には、東西南北、東北・東南・西北・西南の八方に上と下、合わせて十方の世界中と一緒に味わっているのじゃ(から、破戒しているのではない)。わしが生き物を食う時は、やつらをみな無余涅槃(二度と現世に戻って来ない完全な悟りの境地)に送り込んでやっているのじゃ。
だから、
閻老子不管爾口弁。
閻老子、爾の口弁に管せず。
エンマのじじいは、おまえさんなんかの申し立てには耳は貸さんよ」
わしが地獄に行くわけはなかろう、というのである。
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宋・黄庭堅「山谷題跋」巻六「書贈晃師」(書して晃師に贈る)。時にはこんなに強気に出てみたいものですね。だが、現実は・・・。