士生季世(士の季世に生ずる)(「清紀」序)
やっと一週間おしまい。今日は横濱まで行ってきましたが雨で帰ってきた。今週は株価が下がって「もうおしまいだろう、わははは」と嘲っていたが、また高くなってきましたので、まだしばらくおしまいは来ないようです。おとなしくしていようっと。

「こんな歌知らんでカッパ」「流行ったのは奈良だけでカッパ」とかホントのことは言えなくても、がまん、がまん。
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水清而魚不得安矣、
林清而鳥不得安矣、
言清而身不得安矣。
水清ければ魚安んずるを得ず、林清ければ鳥安んずるを得ず、言清ければ身安んずるを得ざるなり。
水が澄んでいると、魚は(居場所がわかってしまって)安全ではいられない。林がすっきりしていると、鳥は安全ではいられない。言葉が端的で清らかだと、この身が安全ではいられない。
なんだそうですよ。さらに、世の中がどんどん悪くなってくるので、真実を言ってはいけない度合も高まってくる。
昔之屑者、飾清言以自文、後之賢者、反匿清言以自免。
昔の屑者は、清言を飾りて以て自ら文(かざ)るに、後の賢者は、反って清言を匿して以て自ら免るなり。
昔のさっぱりした人たちは「清らかな言葉」を飾りにして、自らの生き方を飾ったというが、後世のまずまず賢いみなさまは、却って「清らかな言葉」を隠して、罪に陥れられるのを避けようとしているのだ。
まったく、
士生季世、善不可為、而清復可紀乎。漢之清議、晋之清談、徒自及也、且禍而国。
士の季世に生ずるもの、善は為すべからず、しかるに清また紀すべきか。漢の清議、晋の清談、徒らに自ら及ぶなり、かつ禍いして国にもすなり。
われわれ読書人も今のような末の世に生まれて来た以上、善いことをすることなどできない。そんな中で、清らかな言葉を記録することはできるだろうか。後漢の党錮の禁を起こした清流派、西晋の清談にうつつを抜かして国を滅ぼしたといわれた清談グループなどが、自分たちも処罰され、国家にまで大きなわざわいをもたらしたように(、清らかであることは国をさえ滅ぼすからである)。
我が友、呉従先が言うには、
処世至此時、笑啼倶不敢。論文于我輩、玄白総堪嘲。
世に処りてこの時に至る、笑い啼くもともに敢えてせず。我輩において文を論ずるは、玄白すべて嘲るに堪えたり。
こんな時代にこの世で生きていくのだから、笑ったり泣いたりすることは無くなってしまった。われわれの間で文章について議論するのは、深い議論であっても浅はかな意見であっても、どちらも笑われるばかりだろう。
と。
だとすると、
予恐此書出、而嘲者正多也。
予恐るらくはこの書の出づる、嘲る者まさに多からん。
わたしは、おそらく、この本が出版されると、笑う者が本当に多いだろうと思う。
だからやめておけと言いたいのだが、それでも出版するのだからしようがない。わたしはかつて、萬暦の文人・陳眉公が黄汝亨に言った言葉、
世皆欲殺成才子、我見猶憐是美人。
世みな才子を殺さんと欲するも、我は見てなおこの美人を憐れむがごとくせん。
世の中のひとはみんなで、才能ある若者をつぶそうとするものだが、おれはまるで美人を見るかのように愛情を注ぐだろう。
が気に入っていた。
亡已、請以此言為寧野解嘲。
已む亡ければ、請う、この言を以て寧野のために嘲りを解かんことを。
どうしても出版するのなら、この言葉をそのままみなさんにお示しして、寧野(呉従先の字)がバカにされないようにしてやりたいと思うのである。
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明・王宇「清紀序」より。王宇が、友人の呉従先(字・寧野)の書いた清言集「清紀」に友人代表で序文を寄せたもの。いろいろ屈折した文章ですが、彼が才子だ、ということを言いたいみたいです。
本当のことを言ってはいけないので、気をつけましょう。今日も二三回は言いそうになってしまいましたが、がまん、がまんです。