客星犯御坐(客星、御坐を犯す)(「後漢書」)
オリオン座のベテルギウスがまた減光しはじめているらしい。いよいよ超新星に約600年前になるかも(←構文ミスではなく、6百何光年かの距離があったはずなので時制が乱れているんです)。

赤色巨星が大爆発すると超新星になる!・・・んでしたっけ。うろ覚えだが。
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3月5日の「後漢書」厳子陵伝の続きです(前回を読んでないひとはこの目次から入ってください。ただし、前回読んでないから今回のお話がわからない、というほど高度なお話ではありません。念のため)。前回、嘆息しながら帰ってきた光武帝ですが、しばらくして
復引光入。
また光を引きて入らしむ。
また、厳光を、今度は呼び出して宮中に来てもらった。
論道旧故、相対累日。
道を論ずること旧故、相対して累日なり。
二人で「道」とは何かを議論しあい、まるで昔のように何日間かを過ごした。
帝は従容(くつろぐさま。「ゆったり」)として光に問うた、
朕何如昔時。
朕、昔時にいかん。
「わたしは、昔と比べて進歩しとるかなあ」
厳光は答えた、
陛下差増於往。
陛下、やや往に増せり。
「陛下は、少しだけ以前よりよくなってますな」
「そうか、わっはっはっは」
「さすがでございますよ、いっひっひっひ」
因共偃臥。光以足加帝腹上。
因りてともに偃臥す。光、足を以て帝の腹上に加う。
そんなことで、二人は宮廷の一室で一緒にごろんごろん寝た。ある晩は、厳光は足を光武帝の腹の上に乗せて寝たのである。
明日、太史奏客星犯御坐甚急。
明日、太史奏するに、客星、御坐を犯すこと甚だ急なり、と。
翌朝、天文監の太史が大慌てで上奏に来た。言うに、「突然現れた星が、昨夜陛下の御坐に侵入しましてございます! もしかしたら大事件の予兆かも!」と。
帝笑曰、朕故人厳子陵共臥耳。
帝笑いて曰く、「朕、故人・厳子陵とともに臥すのみ」と。
帝はそれを聞いて笑って言った、「わたしが友人の厳子陵と一緒にごろごろしていただけじゃよ」と。
帝は光に、実務のほぼ無い諫議大夫への就任を示唆したが、受ける気は毛頭なさそうなので。郷里に返した。
後人名其釣処為巌陵瀬焉。
後人その釣処を名づけて「厳陵瀬」(げんりょうらい)と為せり。
後世のひとは、彼が釣りをしていたところを、「厳(子)陵の急流」と名付けた。
建武十七年、復特徴、不至。年八十、終於家。
建武十七年、また特に徴すも、至らず。年八十にて家に終わる。
建武十七年(41)、また特別に招致したが、来なかった。(その後、)八十歳の時に、自宅で亡くなった。
帝傷惜之、詔下郡県賜銭百万、穀千斛。
帝、これを傷惜し、詔を郡県に下して銭百万、穀千斛を賜る。
帝はこのことを大変お悲しみになって、みことのりを下して、隠棲先の土地を所管する郡県から遺族に、百万円分の銭と千斛(こく)の穀物を賜ったのだった。
後漢当時の一斛≒1.98リットルですので、千斛は約1980リットルということがわかります。一食一合(現代)≒0.18リットルで計算すると、うーんと、うーんと、えーーと、えーーと、一万一千食分です。年間千食として11年か。あっという間に食べ尽くしてしまいますね。
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「後漢書」巻八十三・逸民列伝より。死なない修行はまだまだできてなかったみたいです。
このお話はいにしえの王者には臣下として遇せない友人があった、という「美談」なのですが、実話かと言われると、実話であってほしい! のですが、光武帝・劉秀は紀元前6年の生まれで建武中元二年(57)に崩御されているので、亡くなった時が数えで64歳(西暦にゼロ年はあるかないか?)、建武一七年(41)は47歳ですから、厳光はその間に八十歳で卒しているため、二十~三十歳年上になってしまい、これでは「友人」設定に合いません。百万円くれたのを次の明帝かさらに次の章帝にでもしないといけません。あるいは六十歳で死ねばいいのかも。