焉用彼(焉(いず)くんぞ彼を用いん)(「桯史」)
足痛いし、腹筋がこむらがえりを起こすし、寒いし、転ぶし、もうイヤですわー。

本日は国際女性デー。ありがたや。
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南宋初期に対金抗戦を主張し、枢密使として壮大な戦略で金軍の四川侵入を防ぎ、また河南では文官ながら前線指揮官としても多くの功績をあげたのですが、主和派の秦檜らに憎まれて長く左遷生活を強いられた紫巌老人・張浚の名を知らない人はありますまい・・・と思ったけど現代日本ではあまり知られてないと思います。朱晦庵の親友であった南軒先生・張栻のおやじ、と言った方が有名なのかな。その死後、行状は息子の張南軒の依頼で朱晦庵が書いています。
なお、張浚の一時期部下でもあり、優秀な武人ながら、秦檜と結んで岳飛を失脚させた張俊とは違う人ですので念のため。張俊の方は岳飛廟の前に、秦檜夫婦と一緒に石像になって、今も唾を吐きかけられているのでこちらの方が有名でしょう。
さて、この張紫巌老人、秦檜さまの全盛期には、
謫居十五年、憂国耿耿、不替昕夕。
謫居すること十五年、国を憂うること耿耿(こうこう)として、昕夕に替えず。
昕(きん)は、「朝」。
辺境の地に左遷されたまま十五年間、しかしこの間、国の将来を憂うること耿耿と燃えるがごとく、朝も晩もそうであった。
一日中、憂えていたのです。
秦檜さまが亡くなった時、
時宰恃虜好而不固圉、紫巌方居母喪、上疏論時。
時宰は虜の好なるを恃みて固圉せず、紫巌まさに母喪に居るも、上疏して時を論ず。
時の権力者たちは(秦檜さまの後任者たちで)金国との関係が良好だと信じて特に防備を固めていなかった。紫巌先生はちょうど母親の喪に服して郷里の四川・棉竹に帰郷を許されている時期だったが、心配になって皇帝に対して上書して、状況分析と対処方針の建言を行った。
これを支持するひとも多かったんです。朱晦庵などもそうであった。
「なななななんだと、怪しからん!」
朝廷以為狂、復詔居零陵。
朝廷以て狂せりと為し、また詔して零陵に居らしむ。
朝廷の偉い方々は「彼は狂ってしまったようだ」と判断して、詔を下して、また左遷先の湖南・零陵に住まわせた。
零陵は壮族の居住地に近い辺境の地です。そこではやることがあんまりなかったんだと思いますが、
一日、慨然作几間丸墨並常支筇竹杖二銘。
一日、慨然として几間の丸墨並びに常支の筇竹杖の二銘を作る。
ある日、どうしようもなく、机の上の丸い墨(当時はこちらの方が普通だった)と、いつも突いている筇竹(杖にするのに最良とされる竹)の杖の、二つに刻む「銘」と作った。
墨の銘に曰く、
存身于昬昬、而天下之理因以昭昭。斯為瀟湘之宝、予将与之帰老。
身を昬昬(こんこん)に存し、しかれども天下の理は因りて以て昭昭たり。
斯(こ)れ瀟湘の宝と為して、予はまさにこれとともに帰老せん。
おまえの体は黒々としているが、天下の理法と正義は、お前によって(書かれて)明らかになる。
ほんとに湖南地方の宝物じゃ。わしはこれから、おまえとともに老いて行こう。
いいですねー。
逍遥杖(そぞろ歩きのための杖)の銘に曰く、
用則行、舎則蔵、惟我与爾。危不持、顛不扶、則焉用彼。
用うらるれば則ち行き、舎(す)てらるれば則ち蔵するは、これ我と爾のみ。
危うきには持せず、顛(たお)るるには扶(たす)けざれば、則ち焉(いずく)んぞ彼を用いんや。
用のあるときにはお出かけし、用が無くなればしまいこまれて泰然としている。これができるのはおまえとわしとぐらいであろう。
危うい時には支えてくれず、ひっくり返ったときには助けようとしない、そんなやつらを使うわけにはいくまいぞ。
いいですねー。どんなやつらだろうなー。
ところがまた、争いを起こしたい人がいるものなのだ。
或録以示当路、大怒、以為諷己。将奏之、会病卒、不果。
或るひと録して以て当路に示すに、大怒して、以て己を諷すると爲す。まさにこれを奏せんとして、病に会いて卒し、果たさず。
ある人が、この銘を記録して、わざわざ当路者のえらいさんに教えた。えらいさんは激怒なさった。自分をあてこすっているのだと思ったのである。そこで、上奏してさらなる罰を与えようとしたのだが、ちょうどその間に張浚が病気で死んでしまったので、沙汰やみになったのであった。
後、抗戦派寄りの中立系の宰相・陳俊卿がこのことを時の皇帝に申し上げ、皇帝は感じ入って、「逍遥杖銘」を自らの杖にもお刻みあそばしたのでありました。
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宋・岳珂「桯史」巻十より。えらい人には「何の役にも立たないと使わなくていいんだ、君のようにな」「あはは」「おほほ」「うふふ」という教訓に読めてしまうかも知れません。違うんですけど。
動かなくなったおもちゃだって治してくれる人もいるというのに。