3月6日 どうして今日も寒いのか

終無左証(ついに左証無し)(「嘯亭雑録」)

証拠がないと困りますね、債権者は。おれたちの方は別にいいけど。

いつも言ってますが、寝てると150年ぐらいすぐに過ぎるでメー。

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清の乾隆年間のころ、

有吾邑金氏子、随其舅氏之官甘粛、遇道士於漢龍山。

この道士、

年九十余、作江南語。状貌偉然、頗善書法。自云曾為諫職、以劾権相去官。

自称繍髪道人、不言姓字居里。金氏子屢叩之、不告也。

後金氏帰告諸士大夫。

すると、古い人たちは、

皆云其状彷彿笪侍御。

試みに史書を見るに、

笪侍御重光、句容人、居官有直声。嘗劾明珠、余国柱二相国、棄官辞去、不知所終。

とある。

弾劾された納蘭明珠(のらん・みんじゅ)は康熙帝の信頼篤く、三藩の乱や台湾鄭氏の討滅などに帝を補佐した重臣ですが、腹心の余国柱とともに収賄の罪を以て弾劾され、康煕二十七年(1688)、内閣大学士(宰相)の地位を失う。しかしその後も帝の信頼は衰えず、侍衛内大臣として権勢を揮った―――のですから、弾劾に参加したら後々までまずかったのも頷けます。

その年齢からして、笪侍御本人か否かは別として、この納蘭明珠事件に関わったとみて間違い無かろう。

ただし、

然終無左証也。

「証拠」のことを「左証」というのは、いにしえ、債権者は契約の印を割って、左手に持った方「左契」を手元に、右手に持った「右契」を相手方に渡した。したがって、債務者から取り立てる時の証拠に示すのが「左契」であったので、「左証」というのである・・・そうです(逆だったという説もあります)。

「老子」第七十九章に曰く、

和大怨必有余怨、安可以為善。是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常与善人。

正義を通すよりは得をしよう、という「老子」思想、いいですね。新自由主義に負けないように頑張ろう。

さて、金氏の若者はその後、江蘇の句容まで行って、

訪其宗久已徙去。

この話をわたしは幼いころに、幼いころに聞いた話だ、と今のわたしと同じぐらいの年ごろの老人から聞いたのである。

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清・愛新覚羅昭連「嘯亭雑録」巻十より。筋を通すとやばい、しかし、それを機に世を棄てることができる。どちらが人生総決算すると得するか、若い人は試してみる価値あるかも知れませんよ。

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