3月5日 今日もこんな遅い時間に。痴である。

咄咄子陵(咄咄(とつとつ)、子陵)(「後漢書」)

今朝は病院行くのに力を使い尽くして体力切れでしたが、午前中会社で居眠りして回復。午後お菓子等食べまくって肥満。心臓への負担が増す。誰かこの膨らんだ腹を擦る者はいないものか。

肥満はたいへんじゃぞ。

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前漢の終わりごろのことですが、

厳光、字子陵、一名遵、会稽余姚人也。少有高名、与光武同游学。

やがて前漢が滅んで新が建ち、さらに光武帝が即位して後漢を建てたころには、

変名姓、隠身不見。帝思其賢、乃令以物色訪之。

後、斉国上言、有一男子、披羊裘釣澤中。帝疑其光、乃安車玄纁、遣使聘之。

三反而後至、舎于北軍、給牀縟、太官朝夕進膳。

司徒侯覇与光素旧。

「厳光本人かどうか、わたしが確認してみましょう」

と帝に言って、

遣使奉書。使人因謂光、公聞先生至、区区欲即詣造、迫以典司、是以不獲。願因日暮、自屈語言。

光不答、投札与之、口授曰、君房足下、位至鼎足、甚善。懐仁輔義天下悦、阿諛順旨要領絶。

封奏之。

封を開いてこれを読んだ帝は、笑って言った、

狂奴故態也。

そこで、

※※

車駕即日幸其館、光臥不起。帝即其臥所、撫其腹。

さすりがら言った、

咄咄子陵、不可相助為理邪。

「咄」(とつ)は意外だったりしたときに発する声で「おや?」と訳すと大体ぴったりきます。

しかし、

光又眠不応。

帝が側を離れないでいると、

良久、乃張目熟視。

そして言った、

昔唐堯耆徳、巣父洗耳。士故有志、何至相迫乎。

かっこいい。

光武帝はおっしゃった、

子陵、我竟不能下爾邪。

そして、

於是升輿歎息而去。

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「後漢書」巻八十三「逸民列伝」より。みなさんも首と腰が別々にならないように気をつけてくださいねー。

さて、「逸民列伝」も順次紹介して、やっと厳光伝の前半まで来ました。これで全体の半分ぐらい。夏ごろまでには終われるかな。

なお、厳光の回答については、より手の込んだ別説もあります。ヒマな人は、上記の※と※※の間に、以下を挟み込んで読んでみてください。

※⇒

侯覇の使いになってやってきたのは侯子道という男であった。厳光は言った、

君房素痴、今為三公、寧小差否。

「はあ・・・」

侯子道は答えて言った、

位已鼎足、不痴也。

そして、侯覇のコトバ(省略されています)を伝えた。

厳光はそれを聞いて言った、

卿言不痴、是非痴語也。天子徴我三乃来、人主尚不見、当見大臣乎。

「困りました」

そこで、侯子道は、答えを文書でいただきたい、と言った。

厳光は言った、

我手不能書。乃口授。

嫌少、可更足。

というと、厳光は言った、

買菜乎、求益乎。

「むむむ・・・」

このことばは、侯子道から侯覇に伝えられ、さらに光武帝に伝えられました。

帝は、「それなら呼び出した天子が自分で行ってみるしかないであろう」と、車駕を立てて  ⇒※※

・・・というのです(晋・皇甫謐「高士伝」)が、いささか出来すぎといいますか、厳光というひとはこんなには悪趣味ではなかったろうと思います、というか、今からちょうど2000年ほど前のこと、ほんとにいたかどうかもわかりませんのですが。

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