咄咄子陵(咄咄(とつとつ)、子陵)(「後漢書」)
今朝は病院行くのに力を使い尽くして体力切れでしたが、午前中会社で居眠りして回復。午後お菓子等食べまくって肥満。心臓への負担が増す。誰かこの膨らんだ腹を擦る者はいないものか。

肥満はたいへんじゃぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・
前漢の終わりごろのことですが、
厳光、字子陵、一名遵、会稽余姚人也。少有高名、与光武同游学。
厳光、字・子陵、一名・遵、会稽余姚の人なり。少にして高名有り、光武と同游して学ぶ。
厳光は字を子陵といい、また遵という名前もあった。会稽の余姚出身である。若いころから高潔な人間として有名で、後漢初代の光武帝がまだ一書生の劉秀だったころ、一緒に(それぞれの)故郷を離れて学問していた。
やがて前漢が滅んで新が建ち、さらに光武帝が即位して後漢を建てたころには、
変名姓、隠身不見。帝思其賢、乃令以物色訪之。
名姓を変じて身を隠して見(あら)われず。帝その賢を思い、すなわち令して以て物色してこれを訪としむ。
名前を替えて隠居してしまい、どこにいるかわからなくなった。光武帝は彼の賢者だったのを思い出し、ぜひ国家の構築に力を借りたい、と地方官に命じて彼らしい人を探させた。
後、斉国上言、有一男子、披羊裘釣澤中。帝疑其光、乃安車玄纁、遣使聘之。
後、斉国上言するに、「一男子有りて、羊裘を披(き)て澤中に釣す」と。帝、その光たるを疑い、すなわち安車と玄纁を遣りてこれを聘(まね)かしむ。
だいぶん経ってから山東の斉国から連絡があって、「変な男がおります。羊の毛皮をかぶって、湿地で釣りをしております」と言ってきた。帝は、「それはおそらく厳光だろう」と思って、乗り心地のよい車と黒や薄紅の布を贈って、その男を都に招聘した。
三反而後至、舎于北軍、給牀縟、太官朝夕進膳。
三反して後至り、北軍に舎して、牀縟を給い、太官朝夕に進膳す。
三回断った後で都にやってきたので、北軍の宿舎に住居をあてがい、ベッドと蒲団を給与して、朝晩、高級宦官に食事係をさせ(て厚遇し)た。
司徒侯覇与光素旧。
司徒・侯覇、光ともと旧あり。
宰相の侯覇(こう・は)も、厳光とはもとからの知り合いであった。
「厳光本人かどうか、わたしが確認してみましょう」
と帝に言って、
遣使奉書。使人因謂光、公聞先生至、区区欲即詣造、迫以典司、是以不獲。願因日暮、自屈語言。
使いを遣りて書を奉る。人をして因りて光に謂わしむるに、「公、先生の至るを聞きて、区区に即ち詣造せんと欲するも、以て典司に迫られ、これを以て獲ず。願わくば日暮に因り、自ら屈して語言せよ」と。
使者を送って手紙を渡し、その使者に厳光に対してこう言わせた。
「侯覇さまは、厳先生がお見えになったというので、心の中ではやくやってきて面会しようと思っているのですが、部下たちにいろいろ遮られて来ることができません。そこでお願いですが、今日も日が暮れてきております。今日中に、自らぺこぺこして何か伝言を遣わしてやってください」
と。
だが―――
※
光不答、投札与之、口授曰、君房足下、位至鼎足、甚善。懐仁輔義天下悦、阿諛順旨要領絶。
光答えず、札を投げてこれに与うるに、口授して曰く、「君房足下、位は鼎足に至り、甚だ善なり。仁を懐き義を輔くれば天下悦ばんも、阿諛して旨に順うことあらば、要領絶せん」と。
厳光はそれに答えなかった。回答を書くための札を渡したところ、(手紙は書かずに)口述しはじめた。
「君房(侯覇の字)さまよ、地位は三大臣のおひとつにまで登られたのじゃな。たいへんよかった(。これからも頑張ってくだされよ)。温かな心を胸にして正義の執行を補佐するならば世の中挙げて(お前さんの行動を)喜んでくれることだろう。しかし―――、皇帝にへつらって言うことを聞くだけになってしまったら、おまえさんの腰と首は別々になってしまうじゃろう。(よくよく心することじゃ)」
使者が写し取ったその文章を、侯覇は、
封奏之。
封じてこれを奏上す。
封をしたまま帝に上奏した。
封を開いてこれを読んだ帝は、笑って言った、
狂奴故態也。
狂奴の故態なり。
「やっぱりそうじゃ、あの頭の〇かしいやつの、昔のままの態度じゃ」
そこで、
※※
車駕即日幸其館、光臥不起。帝即其臥所、撫其腹。
車駕して即日にその館に幸するに、光臥して起たず。帝その臥所に即(つ)きて、その腹を撫づ。
馬車を命じてその日のうちに厳光の宿舎に行幸なさった。しかし、厳光は寝ていて起きて来ない。帝は自らその寝ているベッドの横に行き、厳光の腹を擦った。
さすりがら言った、
咄咄子陵、不可相助為理邪。
咄咄、子陵、相助して理を為すべからざるか。
「咄」(とつ)は意外だったりしたときに発する声で「おや?」と訳すと大体ぴったりきます。
「おやおや、これは子陵ではないか。わしを助けて政治をしてくれないものかなあ」
しかし、
光又眠不応。
光また眠りて応じず。
厳光はやはり眠ったままで答えなかった。
帝が側を離れないでいると、
良久、乃張目熟視。
やや久しくして、すなわち目を張りて熟視す。
だいぶん経ってから、目を見開いて、帝の方をじろじろ見た。
そして言った、
昔唐堯耆徳、巣父洗耳。士故有志、何至相迫乎。
昔、唐堯は耆徳なるも巣父耳を洗う。士にはもと志有り、何ぞ至りて相迫らんか。
「超古代、唐氏の聖王・堯は老成して人徳があったが、それでも「天下を譲りたい」と言われた巣父(そうほ)は、(「いやなことを聞いた」と言って)耳を洗って逃げて行ったしまったのだ。ひとにはみな人生への思いがあるもの、どうしてそれを無理やりに替えさせることができようか」
かっこいい。
光武帝はおっしゃった、
子陵、我竟不能下爾邪。
子陵、我はついに爾を下す能わざるか。
「子陵よ、どうしてもわたしの言うことを聞いてくれないのか」
そして、
於是升輿歎息而去。
ここにおいて、輿に升りて歎息して去りぬ。
それを言い終えると、また駕籠に載って、ため息をつきながら皇宮に帰って行った・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「後漢書」巻八十三「逸民列伝」より。みなさんも首と腰が別々にならないように気をつけてくださいねー。
さて、「逸民列伝」も順次紹介して、やっと厳光伝の前半まで来ました。これで全体の半分ぐらい。夏ごろまでには終われるかな。
なお、厳光の回答については、より手の込んだ別説もあります。ヒマな人は、上記の※と※※の間に、以下を挟み込んで読んでみてください。
※⇒
侯覇の使いになってやってきたのは侯子道という男であった。厳光は言った、
君房素痴、今為三公、寧小差否。
君房はもと痴なり、今三公たりて、むしろ小(すこ)しく差(いえ)たるや否や。
「君房(侯覇の字)のやつは、むかしは頭がまともでなかったからな。今は三大臣の一人にまでなったとは、以前より少しは治ったということかね」
「はあ・・・」
侯子道は答えて言った、
位已鼎足、不痴也。
位すでに鼎足なれば、痴ならざるなり。
「三大臣の一人、という地位の方ですから、頭がまともでないはずはありますまい」
そして、侯覇のコトバ(省略されています)を伝えた。
厳光はそれを聞いて言った、
卿言不痴、是非痴語也。天子徴我三乃来、人主尚不見、当見大臣乎。
卿の言の痴ならざるは、これ痴語に非ざらんや。天子、我を徴(め)すこと三たびにしてすなわち来たる、人主すらなお見わざるに、大臣にま見ゆるべけんや。
「おまえさんの伝えてくれたコトバがまともだ、というのこそ、おかしなコトバではないかいな。わしは天子さまから三回招集されてやっと来たんじゃ。天子様にもお会いしてないのに、どうして大臣にお会いすることがあろうか」
「困りました」
そこで、侯子道は、答えを文書でいただきたい、と言った。
厳光は言った、
我手不能書。乃口授。
我が手は書するあたわず。すなわち口授せん。
「わしは自分では文字が書けないんじゃよ。それで、いま口頭で答えたわけじゃ」
嫌少、可更足。
少しきを嫌らう、さらに足すべし。
「少なすぎて問題あると思います。もう少し増やしてください」
というと、厳光は言った、
買菜乎、求益乎。
菜を買わんか、益を求めんか。
「(もう少し増やせ、とは)野菜をもっと買ってくれるのか。それとも、利益が上がらない、と言っておられるのか(。もう取り合わんよ)」
「むむむ・・・」
このことばは、侯子道から侯覇に伝えられ、さらに光武帝に伝えられました。
帝は、「それなら呼び出した天子が自分で行ってみるしかないであろう」と、車駕を立てて ⇒※※
・・・というのです(晋・皇甫謐「高士伝」)が、いささか出来すぎといいますか、厳光というひとはこんなには悪趣味ではなかったろうと思います、というか、今からちょうど2000年ほど前のこと、ほんとにいたかどうかもわかりませんのですが。