3月31日 年度末なので店卸しだ

謂国有人乎(国に人有りと謂わんや)(「明語林」)

年度末大サービスです。明代の人の名言をいくつか紹介しましょう。

「わーい、うれしいでわん」

「肝冷斎のお話はタメになるからにゃー」

「価値がわからないのは汚れた人間たちだけでにょろん」

はいはい、ドウブツのみなさんも、そう思うなら水あめ買ってくださいね。

肝冷斎の生活を支えているのは、これらドウブツのみなさんだ。

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〇ある人が家を建てたら柱が歪んでいた。

陶大臨曰く、

学有根、室有基、不実則欹。

学に根有り、室に基有り、実ならざれば欹(そばだ)つ。

「学問には根っこがある。家には基礎がある。どちらもホンモノで無かったら、歪んでしまうのじゃ」

また曰く、

善猶水也。為之先者源、為之後者理。始而濫一觴、終而潤九里。

善はなお水のごとし。これがために先んずるは源、これがために後なるは理。始めは一觴を濫(うか)べ、終わりには九里を潤す。

「善いこと、は、水に似ている。それが行われるには、人の心に源が無ければならないし、それが行われれば、人の間に道理が通る。最初はやっと一杯のさかずきを浮かべられるかというぐらいのか細さでも、やがて流れは九里四方の田をも潤すことになるのじゃ」

一チャイナ里≒500メートルで計算すると、4500メートル✕4500メートルで、2025万平米。そこそこ広いですね。

陶大臨は浙江会稽のひと、念斎先生と号す。嘉靖丙辰(1556)の科挙に榜眼及第(次席合格)。権臣・厳嵩弾劾などに関わり、官は吏部侍郎(人事次官)に至る。

〇薛畏斎がつねづね言っていた言葉。

平生受益者三。一曰貧、二曰病、三曰患難。貧故知節用、病故知保身、患難故知処世。

平生の受益するもの三あり。一に曰く貧、二に曰く病、三に曰く患難。貧故に節用を知り、病故に保身を知り、患難故に処世を知る。

「わしの人生に、役に立つことは三つあった。一つ目は貧乏、二つ目は病弱、三つ目は苦難の数々。

貧乏のおかげで節約することを学んだ。病弱のおかげで体を大切にすることを学んだ。苦難のおかげで現世のことに対処することを学んだのじゃ」

畏斎先生・薛甲、字・応登、江蘇江陰の人、嘉靖乙丑(1565)進士。兵部給事中の後、寧波、保定、四川、江西などで地方官を歴任。高貴の人に常に逆らうを以てついに免ぜらる。王陽明の学を信ずること篤かったという。

〇少年が

日哭長安街、攀貴人輿訴。

日に長安街に哭し、貴人の輿を攀じて訴う。

毎日、北京の長安街(長安門前にあり、宮中の獄囚の出入り口になる)で声を上げて泣き、えらいさんたちの乗った車にしがみついて陳情していた。

宰相の方献夫が哀れに思って訊いた。

汝父何在。

汝の父、いずこに在りや。

「(おまえは孤児なのか?)おまえの父はどこかにいるのか?」

少年は居住まいを正して言った、

吾父馮南江繋獄論死。朝廷且殺諫臣、而宰相不知。尚謂国有人乎。

吾が父・馮南江、獄に繫りて死を論ぜらる。朝廷まさに諫臣を殺さんとし、宰相知らず。なお国に人有りと謂わんか。

「わたしの父の馮南江は、現在裁判中で死刑を求刑されております。朝廷が、諫言を職とする役人をその諫言故に殺そうとしている。そのような危機的な状況であるというのに、そのことを宰相ともあろう方がご存じないのですか。それでもこの国に、心ある人がいると言えるのですか」

と。

ドウブツしかいないのではないか。

馮南江は松江・華亭のひと、嘉靖五年(1526)の進士、十一年、大学士張孚敬、方献夫らを弾劾して反って獄に下ろさる。

囚われて護送される時、あちこちで風評があり、

是御史非但口如鉄、其膝、其胆、其骨皆鉄也。

この御史、ただに口の鉄の如きのみにあらず、その膝、その胆、その骨、みな鉄なり。

この御史(検察官)は、権貴を恐れず批判するその口が鉄でできている(ほど強い)だけでなく、その膝も鉄(なので人に屈することをしない)、その胆も鉄(なので度胸が座っている)、その骨も鉄(なので折れることをしない)だというぞ。

そこで連行の当日には、北京市内の士民(読書人も人民も)集まって「堵」(垣・城壁)のごとく重なったということである。しかし、実際に捕らわれて連行される姿は、普通の人ではないか。

「普通の人なのに、四か所が鉄でできているのだ」

として、「四鉄御史」の名を奉られた。(「明通鑑」等より)

方献夫は、弾劾されて彼を獄に下した当事者なのである。

方黙然。

方、黙然たり。

方宰相は黙りこくってしまった。

結局、内閣も世論に抗しきれず、馮南江は死罪を免れて広東に流罪、後に赦されて官に復す。

この直訴していた少年は、子の馮行可、時に年十四、後年、挙人(科挙試験の地方試験の合格者)となり、地方官を歴任、至るところ清政を以て名あり。引退後、孝貞先生と称されて郷里に卒(おわ)る。歳八十九。

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「明語林」巻二・言語篇より。大サービスで三話もご紹介しました。

「わーい、肝冷斎は役に立つでわん」

「年度末ですごいサービスでちゅー」

「水あめもう一つ買ってあげるでポン」

へへへ、どうもおありがとごぜえます。ああ、みんながこのドウブツのように優しく接してくれていればなあ。

ところで、今わが国には人有りといえるんでしたっけ。

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