倐如流電驚(倐として流電の驚かすが如し)(「陶淵明集」)
どんどん残り少なくなってきましたよ。

体重が重いほど時間は速く過ぎるのだよ。
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道喪向千載、人人惜其情。
道は喪なわれて千載に向(なんな)んとし、人人はその情を惜しむ。
(古代の聖人たちの国が滅び)道徳が失われてからもう千年、いまやひとびとは自分の感情を隠して見せようとしない。
今は、さらに1700年ぐらい経ってます。
有酒不肯飲、但顧世間名。
酒有るも飲むを肯えてせず、ただ世間の名を顧みるなり。
お酒があっても飲もうともせず、ただ世間での評判を気にしているばかりだ。
しかしながら、
所以貴我身、豈不在一生。
我が身を貴ぶ所以は、あに一生に在らざらんや。
世間での評判を気にして自分自身を大切にするのは、一回きりの人生のためではないのか。
そして、
一生復能幾、倐如流電驚。
一生はまたよく幾ばくぞ、倐(しゅく)として流電の驚かすが如し。
一回きりの人生もやはりまたどれぐらいか、あっという間―――電光が走ったと見る間に「どかん」と落雷してびっくりするまで―――と同じぐらいではないか。
これは名句ですね。
それなのに、
鼎鼎百年内、持此欲何成。
鼎鼎たる百年の内に、これを持して何をか成さんと欲す。
「鼎鼎」というのはおそらくオノマトペなのですが、どういう感じなのであろうか。
もとは「礼記」檀弓上篇に出るコトバです。
喪事欲其縦縦爾、吉事欲其折折爾。故喪事雖遽不陵節、吉事雖止不怠。故騒騒爾則野、鼎鼎爾則小人、君子蓋猶猶爾。
喪事にはそれ縦縦爾(しょうしょうじ)たるを欲し、吉事にはそれ折折爾(せつせつじ)たるを欲す。故に喪事には遽(にわか)なりと雖も節を陵せず、吉事には止まると雖も怠らず。故に騒騒爾(そうそうじ)たればすなわち野、鼎鼎爾(ていていじ)たれば則ち小人、君子は蓋し猶猶爾(ゆうゆうじ)たり。
「集説」にいう、「鼎鼎」は「太舒」(はなはだ舒=ぐずぐずして進まない)である、と。
凶事に関する儀礼は、どんどんやるつもりで行うこと、吉事に関する儀礼は、その都度その都度必要な時に行うことが必要である。そのため、凶事は急に起こったことでも(そういう時はより悼む気持ちは強いであろうけど)節度を越えてはいけないし、吉事は行事に間が空いてしまうことがあっても気を抜かないように。
まとめれば―――騒々しくやるのは田舎者、ぐずぐずとするのはちっぽけなやつ、まともな人はゆったりと、しかし遅くはならず。
もとの詩に戻ります。
百年の間をぐずぐずと、世間での評判を保てたとして、さて何になるのであろう。
まったくだ。しかし・・・。
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晋・陶淵明「飲酒」其三。球遊び見て時間潰している場合じゃないぞ・・・とはいえ、では何をすればいいのか?さえわからぬ我が生である。
僕は川波を蹴つて進む/僕はポンポン蒸気だ
二銭銅貨より古ぼけた/僕は一銭蒸気だ
けれども僕は快活だ/このエンジンはまだ廻る (三好達治「自画像」(昭和7)
である。今日のところは。