以水投水(水を以て水に投ず)(「淮南子」)
耳の日です。耳よりな話をしますと、しょうゆとソースを混ぜると、ソースの味がします。ただ、ちらっとしょうゆの隠し味もします。さっき確認しました。

本当の真犯人が誰であったか、陰謀はもはや闇に葬られたのじゃ。
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紀元前5世紀のはじめごろ、2500年ぐらい前ですが、楚の国のどこかで、
白公問於孔子、曰人可以微言。
白公、孔子に問いて曰く、人以て微言すべきか、と。
この「白公」は楚の国の白の領主であった羋勝(び・しょう)のことです。「羋」は滅多に見る字ではありませんが、楚の国姓(王家の姓)です。彼は楚の太子の嫡子ですが、数奇な運命をたどって、鄭に父を殺され、その鄭と同盟を結ぶ楚の現政権に強い不満を持っていました。
白公勝が孔子に質問した。
「人に会話を聴かれぬようにすることは、本質的にできるものなのでしょうか」
要するに、秘密の話をしたい、陰謀に関わっていただきたい、と声をかけたのである。
「ほえほえ」
孔子不応。
孔子、応じず。
孔子は、この質問にはお答えになられなかった。
白公勝はまた訊いた。
若以石投水中、何如。
もし石を以て水中に投ずれば、何如。
「石を水の中に投げ込む(ようにわたしたちの胸のうちにだけしまい込んで、二度と明らかにならない)ようにすれば、できるのではございますまいか」
どうしても関わっていただきたい。秘密は守ります。
孔子は言った、
呉越之善没者能取之矣。
呉越の善く没する者、これを能く取らん。
「呉や越の国の潜水(して漁業を行うの)が得意なやつらなら、見つけだすんではないですかなあ」
「それでは、
若以水投水、何如。
もし水を以て水に投ずれば、何如。
水を水の中に注ぐ(ように誰にもわからない)ようにすれば、できるんではございますまいか」
うーん。注釈者としてはツラいところですが、正直、どんな状況を譬えているのかわかりません。ほとんど禅問答みたいです。「言わなくてもお分かりでございましょう、くっくっく」みたいなことでしょうか。
孔子は言った。
葘澠之水合、易牙嘗而知之。
葘(し)・澠(めん)の水合するも、易牙(えきが)嘗めてこれを知る。
「葘水の川と澠水の川は合流しますが、いにしえの料理の名人・易牙は、合流後の水を舐めて、「これは葘水の分、これは澠水の分」と分別することができたそうですぞ(すごい能力のやつがいるのですから、必ずバレますぞ)」
白公勝は(いらいらしたのでしょうか)言った、
然則人固不可与微言乎。
然れば則ち、人はもとよりともに微言すべからざるか。
「そういうことなら、人間というのは本質的に秘密の話はできないものなんですか(できるでしょう?あなたが嫌がっているだけだ)」
「ほえほえ」
孔子は言った、
何謂不可。誰知言之謂者乎。夫知言之謂者、不以言言也。
何ぞ不可と謂わん。誰か言の謂われを知るものあらんや。それ、言の謂われを知る者は言を以てせずして言うなり。
「できない、などと誰が言ったんじゃ? おまえさんは、コトバとは何であるか、その本質をご存じないのか。コトバの本質を知っている者は、言語の形で語ろうとはしないものじゃぞ」
「はあ」
争魚者濡。逐獣者趍。非楽之也。故至言去言、至為無為。夫浅知之所争者末矣。
魚を争う者は濡る。獣を逐う者は趍(はし)る。これを楽しむに非ざるなり。故に、至言は言を去り、至為は為すこと無し。それ、浅知の争うところは末なり。
「魚を捕ろうとする者は水中に入って濡れざるを得ない。ケモノを獲らえようとする者は走り回らざるを得ない。濡れたり走り回ったりすることが楽しくて、それを目的にしているのではないのじゃ。(何かを明確に目的にすれば、必ずあなたにも報いがありますぞ。)それゆえ、最もすぐれたコトバとは、言語にしないことじゃ。最もすぐれた行為とは、何もしないことじゃ。浅い知恵でああだこうだというのは、大切なことではないんじゃ」
(何言ってるんだ、このひとは)
白公不得也。
白公得ざるなり。
白公は納得できなかった。
わたしどももよくわかりません。
故死於浴室。
故に浴室に死せり。
このため、風呂場で死んでしまったのだ。
そうですか。気を付けます。
白公勝は、紀元前472年に楚にクーデタを起こして重臣たちを暗殺し、楚王を監禁するのですが、結局、王に脱走され、王族に攻められて翌年自殺してしまった。
これは、「老子」第七十章のコトバです。全文を引いてみないとわかりづらいと思います。引いてみましょう。
吾言甚易知、甚易行、天下莫能知、莫能行。言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知也。知我者希、則我貴矣。是以聖人被褐懐玉。
吾が言は甚だ知り易く、甚だ行い易きも、天下よく知る莫(な)く、よく行う莫し。言には宗有り、事には君有り。それただ知る無し、ここを以て我を知らざるなり。我を知る者希(まれ)なれば、すなわち我貴きなり。ここを以て聖人は褐を被(き)て玉を懐(いだ)く。
わしのコトバはたいへん理解しやすく、たいへん実行しやすい。ところが、俗世間で理解する者は無く、実行している者も無い。コトバには統一があり、行動には本質が含まれているのだが。さて、ただ知らないということ、それによってわしのことを誰も知らん。わしを知る者は滅多にいないので、だからわしは貴いわけじゃよ。うっしっし。よく覚えておくがいい、この故に、聖なるひとは粗末な服を着て、だがその内面に貴重な玉を持っているのだ、ということを。
ここでは、老子の文章のうち、「コトバについても行動についても何もわかっていない」ということだけを単純に引用しているようです。
白公之謂也。
白公の謂いなり。
これこそ、白公勝の状態であった。
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「淮南子」道応訓より。お茶の名人はどこの水で煮た茶か当てるそうですから、易牙さんぐらいのことはできるでしょう。つまり、水を以て水に投じるぐらい外部にわからない秘密でも、聞き分ける人はいるのでしょう。話してないことでも「こんなことを話しておりましたぞ」と讒言できる人がいるくらいですからね。
「被褐懐玉」(褐を被て玉を懐く)。肝冷斎の服が見すぼらしく、しかも毎日一緒もの着て、しかも彼がつねに幸福そうにしているのは、彼が真理に近いところにいる、ということなのだ・・・いや、違うかも。単に服を持っていないだけかも。ちなみに「老子」のこの章は令和4年10月2日に昔の肝冷斎が解説しているみたいなんですが、どういう文脈で使ったのか、まったく思い出せない・・・はずです、当時の肝冷斎は二世、わたしはすでに三世で、一緒にされては困りますぞ。