3月29日 こういうのがもともと好きなんですが

家人何憂(家人何をか憂えん)(「清通鑑」)

誰も心配していません、という点では肝冷斎と運命を共有している?

肝冷斎たちは、人知れずどこに消えていくのであろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・

清の順治三年(南明・隆慶二年、1646)三月五日、前年、清軍に捕えられて南京に収監されていた石斎先生・黄道周が死刑になりました。

先生は、

于獄中坦然自若、囚服著書。与同囚門人談学論道、吟詠如常。

獄中においても坦然として自若、囚服して著書す。同囚の門人と学を談じ道を論じ、吟詠すること常の如し。

獄中でも普段どおり坦々としており、囚人服を着て書物を書いていた。また、同時に捕らえられた門人たちと儒学について語り合い、道について議論しあい、詩歌を吟じること、捕まえられる前と同じであった。

刑前一老僕請其留下数字、乃裂衣襟噛指血書。

刑前に一老僕、その数字を留下せんことを請うに、すなわち衣の襟を裂きて指を噛みて血書す。

処刑直前に、以前から仕えていた老いた下僕が、何文字かを遺書にしてご家族に遺してくれるよう頼んだところ、囚人服の襟を裂き、指を噛んで血を出して、その血で何やら書きのこした。

曰く、

綱常万古、節義千秋。

天地知我、家人何憂。

 綱常は万古にして、節義千秋なり。

 天地我を知る、家人何をか憂えん。

道義は何万年も変わることはなく、忠節は何千年も滅びることはない。

永遠の天と地がわしのことを覚えておいてくれるのだ、おまえたちは何も心配しなくてよろしい。

四人の弟子がともに処刑された。

なんで先生は処刑されたか。

先生は福建・漳浦の人、貧寒のうちに生まれ、たいへんな努力をして、天啓二年(1622)の進士、宦官・魏忠賢を批判して帰郷、崇禎初年呼び戻され、同五年大学士(宰相)周延儒らを批判して官僚の資格を奪われ民籍に戻る。各地の書院で講義、八年(1635)復官、十一年(1638)兵部尚書・楊嗣昌らを弾劾して朝廷を追われ、江西按察使の属官とされてそのまま帰郷、十三年(1640)「邪党乱政」の罪を以て北京に連行されて下獄、十五年五十七歳で辰州で兵役に就き、赦免の後帰郷、北京の明朝滅亡後、南京の弘光帝の政権に参加するも馬士英らの専権を憤って休職、隆武元年(1645)福州で即位した隆武帝に仕えるが、鄭芝龍(鄭成功のおやじ)をともに謀るに足らずとして自ら募集した兵士を率いて南京に進軍し、兵潰滅して捕らわれ、清朝に屈せずしてついに処刑されたのである。

隆武帝の受け取ったその死の報告にはいう、

古今多一精忠、中興少一名相。

古今、一精忠を多しとし、中興、一名相を少(か)けり。

歴史上に、忠義の人が一人増えたようでございます。代わりに、帝がこれから興される新たな明朝の朝廷には、名宰相が一人減ったようでございます。

と。

帝の感慨ひとしおであったというから、先生もって瞑すべきか。

史家評して曰く、

黄道周一生以剛直不阿、博学著称。

黄道周、一生剛直を以て阿(おもね)らず、博学をもって著称せらる。

黄道周は、生涯を通じて剛直で、権力におもねることがなかった。また、博学で有名であった。

・・・・・・・・・・・・・・・

「清通鑑」巻三・順治三年三月条より。清朝側でも尊敬してくれていたので、チャイナ名物の考えるのもイヤになるような残虐死刑にされなくてよかったです。先生が亡くなったのは満年齢で六十歳。ちょうどわしと同じ年ごろである。わしの方が長生きできそう。・・・だが、その学識・人格だけでなく家族や弟子がいるのだ。すべてにおいてわしの負けである。

ホームへ