不廃吟詠(吟詠を廃さず)(「郎潜紀聞」)
ふがふが。

お年寄りは、この世の秘密はだいたいわかったという人もいるのである。
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進士鮮有至六十年者。
進士、六十年に至る者有ること鮮(すく)なし。
科挙試験の最終合格者で、その資格を得てから六十年になる人は少ない。
例えば、
康煕己未進士至乾隆己未猶在、有両人焉。
康煕己未の進士の、乾隆己未に至りて猶在るは、両人有るのみ。
康煕己未年(1679。まだ三藩の乱の最中ですね)の合格者で、乾隆己未年(1739)になってもまだ健在であられたのは、ただお二方だけであった。
一人は山東・益都の趙秋谷、もう一人は黄岡の王西潤である。
時西潤年八十有七、而秋谷亦年将八十矣。王重聴、趙失明、両公耳目各廃其一、而皆不廃吟詠云。
時に西潤は年八十有七、而して秋谷もまた年まさに八十なり。王は重聴にして趙は失明し、両公耳目おのおのその一を廃するも、而るにみな吟詠を廃さずと云えり。
この年、王西潤は八十七歳、趙秋谷はちょうど八十歳であった。王の方は耳が聴こえず、趙は目が見えなくなっていた。お二人は耳と目と、それぞれどちらか一つは機能を止めてしまっていたわけだが、しかし、どちらも詩を作って声を出して詠むことは止めなかった。
これはほめているんですよ。
趙秋谷についてはこんな話もあります。その前年の戊午の年のこと、
黄崑圃先生が山東の布政使として赴任した。
黄素重秋谷者、会益都令某拝謁、語之。
黄はもと秋谷を重んじる者にして、益都令某の拝謁に会して、これに語る。
黄先生は以前から趙秋谷の詩文を重んじていたので、管下の益都県の県令が面会に来た時をとらえて話し込んだ。
曰く、
趙秋谷先生、君管内人也。其詩文甚富。蓋請於先生、持其草以来。
趙秋谷先生は君が管内の人なり。その詩文甚だ富む。なんぞ先生に請いて、その草を持ちて以て来たらざるや。
「趙秋谷先生は引退して帰郷したが、それはちょうど君の管内だよね。趙先生にはたいへんたくさんの詩や文章を書いておられる。ぜひ、先生にお願いして、先生の原稿なりをお借りして、読ませてもらえないものだろうか」
と丁寧に頼んだのであるが、
令帰、即遣一隷持牒往。
令帰り、即ち一隷に牒を持して往かしむのみ。
県令は益都に帰ってくると、趙の家に、(自分では行かずに)お使いの者に事務的な文書を遣わしただけであった。
「なに? わしの詩文集を指し出せ、じゃと? その文書を見せてみい」
文書には、新任の布政使の命令で、詩文集を一時期借りだしたい旨が書かれていた。
「むむむ・・・」
趙故善罵、得牒益大怒。
趙はもと善罵するも、牒を得てますます大怒す。
趙はもともと怒りっぽいので有名であったが、文書を見て、ますます怒った。大いに怒った。
「県令は、年寄のところからこんな紙切れ一枚で文集を取り上げるのか!」
詬令俗吏、并及於黄。
令を俗吏と詬し、あわせて黄にも及ぶ。
県令のことを低級役人とののしり、さらに布政使の黄についてその態度を批判した。
このことがよっぽど骨身に染みたらしく、
「本をいただくときはお気持ちに注意しなければならない。お気持ちに逆らうと・・・」
と、
黄親為其門生述之。
黄は親しくその門生のためにこれを述ぶ。
黄は、後々まで、自分の弟子たちのために、自らこの話をしていた。
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清・陳康祺「郎潜紀聞」初筆巻十より。年寄りを怒らせてはなりません・・・ということはもうありません。老害黙っとれ、と一喝されてしまいます。