不得称樹(樹と称するを得ず)(「訂訛類篇」)
実るほどこうべを垂れる〇〇〇かな。
さて、〇〇〇には何が入るでしょうか。①サクラ ②ヤナギ ③先生

これはこれはと見上げるばかり吉野山
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清の漁洋山人・王士禎の「居易録」にいう、
・・・辺司徒の「華泉」の詩にこんな一節がある。
自聞秋雨声、 秋雨の声を聞きしより、
不種芭蕉樹。 芭蕉の樹を種(う)えず。
秋雨の(ものさびしい)雨音を聞いてから、
わたしは芭蕉の木を植えないことにした。(秋雨が芭蕉の葉に当たって音を立てるから、それがさびしくてイヤなのだ)
いいですねー。
ところが、
或議不得称樹。
あるひと、樹と称するを得ざるを議す。
あるひとが、この句に文句をつけて、「芭蕉は巨大とはいえ草であり、樹木ということはできないのではないか」と言った。
又或議王右丞画雪中芭蕉。
また、或るひと、王右丞の雪中の芭蕉を画くを議す。
また、あるひとは、唐の王維が「雪の中の芭蕉」という絵を描いていることについて、(芭蕉は亜熱帯の植物だからそんなことはありえないのではないか、と)問題にしている。
後者については、宋の朱翌が、
曲江冬大雪、芭蕉自若紅蕉方作花。前輩画之不苟。彼身未到蜀粤、故少所見多所怪耳。
曲江、冬に大雪するも、芭蕉おのずから紅蕉のごとくまさに花を作す。前輩これを画くことかりそめならず。彼、身いまだ蜀・粤に到らざる故に、見るところ少なくして怪しむところ多きのみ。
長安の曲江は冬には大雪が降るところだが、芭蕉はそこでも紅の姫芭蕉のように花を咲かせるものだ。むかしのひとは、そんなことをいい加減に描いたはずがない(必ず事実をみて描いているはずだ)。これに文句をつけた人は、自分で亜熱帯の四川南部や広州に行ったことがないのであろう。そのため、芭蕉をあまり実見したことがなく、想像でいろいろ変に思っているだけである。
と言っているので、雪の中の芭蕉は有り得るのである。
・・・さすがは清一代の正宗(典型となるべき詩人)、漁洋山人の本は勉強になるなあ。ところで、わたしは、宋初の詞集「花間集」を閲していたところ、
笑指芭蕉林裏住。
笑いて芭蕉の林裏に住むを指す。
(その人は)笑いながら芭蕉の林を指さし、「あの向こうに住んでいるのだ」と言った。
という表現を見つけた。
既可称林、顧不得称樹耶。
既に林と称するも可なり、顧みて樹と称するを得ざらんや。
ここで既に(芭蕉の)「林」と言って通っているのである。これを鑑みれば、「樹」と言っていけないことはないであろう。
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清・杭世駿「訂訛類編」巻六より。「だからなんだというんだ!もっと役に立つ話をしろ!」・・・と切れてはいけません。「なるほど、勉強になります」と芭蕉の花のように、深く頭を下げるぐらいになってもらいたいものです。
芭蕉は関東地方にも育つので、雪の中で見られてもよかろうと思いますが、紅蕉(ひめばしょう)のような赤い花が咲くわけではないので、この考証にはどこかに誤解か曲解がありそうな気がします。樹ではないし。でも、とりあえずはまず「ありがとうございます」と、こうべを垂れることからじゃ。
またまた岡本全勝さんにご紹介いただいたようで、見に来てくれる人が増えました。「ありがとうございます」とこうべは垂れておきましょう。タダだし。