可以全身(以て身を全うすべし)(「清通鑑」)
さくらに雨、もう春も終わりでしょうか。WBCおもしろかったけど、しゃもじはちょっとなあ。

これは三人上戸。さんじゅわんさまにとりなしてもらわなければ、ぱらいそには連れて行ってもらえない。(諸星大二郎「生命の木」を参照のこと)
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清の順治二年といえば南明の弘光元年、西暦1645年でございますが、この年四月には清軍によって名将・史可法の守る揚州が陥落し、名高い「揚州十日」(揚州城が激しい抵抗の末に陥落した後、清軍は十日間にわたって史上稀にみるほどの大虐殺を行った)が行われ、五月にはついに長江を渡って一気に南明・弘光帝の帝都・南京に迫ってまいりました。
弘光帝は北京で崇禎帝が自裁した後、権臣・馬士英が、懶惰で淫乱、自分が操縦しやすい、という条件で選んだ人物です。ことここに至っては、情報を阻害していた馬士英とはもはや相談せず、五月十日朝、清兵の先鋒が北方の城門に迫りつつある中、
所選三淑女在経歴者、放還母家。
選ぶところの三淑女、経歴に在る者、母家に放還す。
前年の北京陥落の情報の中で、群臣の反対を押し切って馬士英とともに南京城内で行った後宮への女性狩り―――それで選ばれていた三人の「淑女」階級の女官が、まだお手付きの儀式が済んでいなかったので、実家に帰らせた。
残念なことです。
それから、馬士英とは相談できない(したくない)ので、
召内臣韓賛周問計。
内臣韓賛周を召して計を問う。
宮内官(宦官)の韓賛周を呼んで、どうすればいいか下問した。
韓賛周曰く、
兵単力弱、守和無一可者。
兵単にして力弱く、守・和一も可なるもの無し。
「守備兵は少なく、また武力の足りません。城を守るのも、和議を結ぶのも、どちらも不可能でしょうな」
「むむむ」
「一つだけ方法がございます。
不若親征。済則可以保社稷、不済亦可以全身。
親征するに若かず。済すればすなわち以て社稷を保つべく、済せざれどもまた以て身を全うすべし。
陛下自ら親征なさることです。成功すればそれによって国家を守ることができましょうし、うまくいかなくても、ご自身ご一身だけは生き延びることができましょう」
それを聴いた帝は顔をしかめて、
「親征する? わしに率いることのできる軍隊がまだどこかにあるのか?」
と難じた。周囲の者も、この惰弱な皇帝にそんなことを求めてムダではないかと、韓賛周を冷ややかに見た。
しかし、帝は、韓賛周がじっと帝の方を見つめているのに気づいて、その目を見返した。
(賛周が言うには、「うまくいかなくても、一身だけは生き延びる」・・・どうやって? あ、なるほど)
遂有所悟。
遂に悟るところあり。
ついに、はた、と気づいたのである。
「そうだな・・・。おまえの言うとおりだ、やってみよう」
「御意」
中午、喚集梨園子弟入大内演戯、与諸太監雑坐酣飲。
中午、梨園弟子を集めて大内に入れて演戯せしめ、諸太監と雑坐して酣飲す。
正午ごろから、宮廷楽団の隊員(ほとんどは女性)を宮殿内に入れて歌舞音曲を行わせ、高位の宦官たちも呼んで皇帝と同じ席で芝居を見ながら宴会を開いた。
こいつらを率いて戦うのだろうか。
入夜、二鼓時分、与汪陳二妃及内官四五十人、跨馬従通済門走出、奔向西南。
夜に入り、二鼓の時分に、汪・陳二妃及び内官四五十人と、馬に跨りて通済門より走り出で、奔りて西南に向かえり。
夜に入って、午後九時ごろ、汪氏と陳氏二人の妃と宦官四五十人だけを連れて、馬にまたがって南側の通済門より走り出で、清軍が迫ってきていないと情報のあった西南方面に向けて、奔走していった。
彼らのいう「親征」とは、自ら目の前の敵と戦うことではなく、遠くを征服に行くことだったんです。
韓賛周従之、而百官無一知者。
韓賛周これに従うも、百官は一も知る者無し。
韓賛周もこのグループに入っていた。だが、宮内ではない実務側の役人で、このことを知っている者は一人もいなかった。
みな取り残されたのである。
次日晨、城中人方覚、乃大乱。
次日のあした、城中の人まさに覚り、すなわち大乱となる。
翌朝、城内の者たちは皇帝が逃げ出したことに気づき、大混乱が始まった。
取り残された人たちも、悪いやつから逃げ出します。ちなみに馬士英は、遺されていた太后さま(弘光帝のおふくろ)を捕まえて、逃亡していきました。
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「清通鑑」巻二より。国が亡びるときですから、もう何やってもいいので、合目的的ですばらしい。果たして弘光帝は逃げ切れるでしょうか。