有無知之人(無知の人有り)(「袁氏世範」)
礼儀とかいろいろうるさい世の中ですが、守るべき地位も財産も家族も無い「無敵の人」となれば、礼儀も服も要らないので、在野の賢者としてそれを目指しています。

われわれ雪だるまは、ひと風呂浴びれば、地位や財産はおろか、自分もきれいさっぱり無くなるのだるまー。
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宋の人の言っていることですから、反論があったら肝冷庵ではなくそちらにしてください。
世有無知之人。不能一概礼待郷曲、而因人之富貴貧賤、設為高下等級。
世に無知の人有り。郷曲を一概に礼待する能わず、人の富貴・貧賤に因りて高下の等級を設け為す。
世の中にはわかってない人がいるもんでしてなあ。
住んでいる土地のひとたちに応対するのに、みんなに平等に対することができず、相手の財産・身分によって高い低いの等級を設けてしまうのです。
みなさんはそんなことないと思いますけど。
見有資財、有官職者、則礼恭而心敬、資財愈多、官職愈高、則恭敬又加焉。至視貧者賤者、則礼傲而心慢、曾不少顧恤。
資財を有する、官職を有する者を見れば、礼恭にして心に敬い、資財いよいよ多く、官職いよいよ高ければ、恭敬また加う。貧者・賤者を視るに至りては、則ち礼傲にして心慢に、つねに少しくも顧恤せず。
資力や財産を持っている人、官職に就いている人を見ると、うやうやしく礼儀を行い心の中に尊敬心を抱く。資力や財産が多ければ多いほど、官職が高ければ高いほど、礼儀をうやうやしくし、心の中の尊敬心もさらに強くなるのである。一方、貧乏人や身分の低いものに対するときは、礼儀は傲り高ぶり、心は高慢ちきとなって、いつも少しもかえりみたり憐れんだりしない。
この人たちは、
殊不知彼之富貴、非吾之栄、彼之貧賤、非我之辱。何用高下分別如此。
ことに知らず、彼の富貴は吾の栄に非ず、彼の貧賤や我の辱に非ざることを。何を用いてか、高下の分別かくのごときなる。
ほんとうにわかっていないのだ。他人の富貴は、決して自分の栄光ではないし、他人の貧賤は、決して自分の屈辱ではない、ということを。どうして高い低いの分別をこんなふうにしたがるのであろうか。
長厚有識君子必不然也。
長厚にして有識の君子は、必ず然らざるなり。
重厚で物事をよく知っている立派な方は、絶対こんなことはない。
みなさんのことですよね。
操履与昇沈、自是両途。不可謂操履之正、自宜栄貴、操履不正、自宜困厄。
操履と昇沈は、おのずからこれ両途なり。操履の正しき、自ずと栄貴たるべく、操履の正からざる、自ずと困厄すと謂うべからず。
「操履」は「操(みさお)」と「履(おこない)」です。現代語の「素行」という語の感じが近いでしょうか。
その人の素行と人生の昇り沈みは、関係のないことである。素行が正しいから、当然、栄え貴くなるというわけにはいかないし、素行が悪いから、当然、困ったり不運だったりする、というわけではない。
考えてもみてください、
若如此、則孔顔応為宰輔、而古今宰輔達官不復小人矣。
もしかくの如ければ、孔・顔まさに宰輔たるべく、古今の宰輔・達官はまた小人ならざるなり。
もしもそういうふうに、素行と昇り沈みが比例するものであれば、孔子やその弟子・顔回は当然宰相に出世しているはずであるし、歴代の宰相やえらいさんが、どうしようもない人間ではなかったことになってしまうではないか。
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宋・袁采「袁氏世範」巻二より。そこまでは当たり前のことしか言ってないので厭きてきますが、最後に、歴代のえらいさんがどうしようもない人間であった、と言い出してしまい、ぴりりと引き締めています。ほんとに、えらいさんには怪しからんやつ多いですよね。
誰とでも会ってくれる人はそうはいませんよね。(笑)
尾身先生の話も気になっているのですが、なかなか引用できません。