蓄書数千巻(蓄うるの書数千巻なり)(「澠水燕談録」)
次の世代が判断することなのかも知れません。

私は母方からの世襲の肥満ですが、「世襲でぬくぬくと太りおって、おかみのお覚えもいいのであろう・・・」などと思われているかも。
・・・・・・・・・・・・・・・・
北宋の陳亜は少卿(特別機関の次官)まで務めた官僚ですが、たいへんな文化人で、
蓄書数千巻、名画数十軸、平生之所宝者。
蓄うる書数千巻、名画数十軸、平生の宝とするところのものなり。
数千巻の書物と数十軸の名画を所有して、普段から大切にしていた。
仕事ぶりも細やかで、人柄も柔らかだったから、特に彼を悪く言う人も無かった。
晩年退居華亭。双鶴唳怪石一株、尤奇峭。与異花数十本列植於所居。
晩年、華亭に退居す。双鶴唳(そうかくれい)怪石の一株、尤も奇峭なり。異花数十本と居るところに列植す。
晩年になって、郷里の浙江・華亭に隠居した。(その屋敷の庭には、)「二羽の鶴が鳴いている(ような)石」という有名な石が一つ(「一株」と数えるみたいです)あって、これが嶮しい雰囲気を出してて一番かっこいい。ほかによそでは見られない不思議な花が数十本あって、これも庭に並べ植えられていた。
「鶴唳」(かくれい。鶴の鳴き声)が石の題になるのはなぜか。
「晋書」陸機伝(列伝24)によれば、四世紀初め、西晋の陸機は讒言され死罪となる時に、
華亭鶴唳、不可復聞乎。
華亭の鶴唳、また聞くべからざるか。
(郷里の華亭で幼いころに、弟たちと聞いた)鶴の声を思い出すが、あの声はもう聞くことができないのだろうか。
と嘆じてついに害せられた。史書にいう、この日、大風が吹き、平地にも雪が一尺積もったと。
・・・という故事にちなんだかっこいい石だったんでしょう。
こういう素晴らしいモノをたくさん集めた陳亜は、
為詩戒子孫。
詩を為(つく)りて子孫を戒しむ。
詩を作って、子孫に遺言した。
曰く、
満室図書雑典墳、華亭仙客岱雲根。
満室の図書(ずしょ)には雑(まじ)う、典・墳と、華亭の仙客、岱の雲根を。
「典墳」は、「三墳五典」の略で、古代に伝わっていた超古代の書物のことです。典故を当たり始めるとめんどくさいんですが、「春秋左氏伝」昭公十二年(前530)にいう、楚の霊王が宰相の子革に対して、左史の倚相のことをこう評した。
是良史也。子善視之。是能読三墳五典八索九丘。
これ、良史なり。子、善くこれを視よ。これ、よく三墳五典八索九丘を読む。
「こいつはいい書記官だぞ。おまえさんもよくこいつのことを見ておくとよい。こいつは、「三墳五典八索九丘」を読めるんじゃからなあ」
と言う部分に出てきます。
これに対して子革は「いやいや、わたしもよく彼を知っていますが大したことありまへんで」みたいなことを言って、自分の方が知識人だ、と言い出すのです・・・が、今は閑話休題。
陳亜の詩に戻ります。「仙客」は鶴のことです。
部屋中の画と書籍その他には、三墳五典のような貴重書もあれば、華亭の鶴やら泰山の雲を生み出す名石がごちゃごちゃになっとる。
他年若不和花売、便是吾家好子孫。
他年、なんじ、花に和して売らずんば、すなわちこれ吾家の好子孫。
将来、おまえが、花は(毎年咲くから切って)売ってもいいのだが、それと一緒に図や書や石を売らなかったら、それだけでおまえは我が家のよき子孫である。
これが一族の集まる正堂に掲げられてたはずである。
ところが、
亜死未幾皆散落民間矣。
亜、死していまだ幾ばくならざるに、みな民間に散落せり。
陳亜が死んで、まだそれほど経たないうちに、画も書籍も名石も、すべて民間の(つまり皇帝や官僚たちでない)富豪たちのところにばらばらになってしまった。
・・・・・・・・・・・・・・・
宋・王闢之「澠水燕談録」巻九より。陳家は世襲失敗のようです。たいていのことは、ハラハラドキドキせずに、もう次の世代の判断に任せればいいや、好きにやってくだされ、という気分になってきました。なってきただけで、まだたくさん執着があるが。