習以為常(習いて以て常と為す)(「五雑組」)
テレビ無いけど、WBCで優勝したなんてウソみたいなことばっかり言ってると、四月一日に舌抜かれますよ。

波照間のヤシガニは蜃気楼は吐き出さない。気力不足ではないか。
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登州海上有蜃気、時結為楼台、謂之海市。
登州の海上に蜃気有りて、時に結びて楼台と為る、これを海市と謂えり。
山東半島の登州から東の海の上には、巨大はまぐりの呼気が吐き出されていて、これが時おり映像化し、高層の建物や展望台の形を成す。これを「海の都市」と呼んでいる。
昔からこの蜃気楼=海市は定説となっています。
しかし、わたし(←肝冷斎に非ず)はあえて申し上げよう、
此海気非蜃気也。
これ海気、蜃気には非ざるなり。
これは海の吐き出すガスであって、巨大はまぐりの呼気ではないのである。
もう500年も昔の明代の人が言っていることなのですが、もしかしたら科学的かも知れません。
大凡海水之精、多結而成形、散而成光。凡海中之物、得其気久者、皆能変幻、不独蜃也。
おおよそ、海水の精、多く結ばれて形を成し、散じて光を成す。およそ海中の物、その気を得て久しきは、みなよく変幻すること、ひとり蜃のみにあらざるなり。
だいたい、海水のエキスは、多くの場合、結合して形を成し、散開すると光となるものである。一般に海中のモノは、その海水の出す気体を長く受けていると、なにものでも変化しマボロシを見せること、巨大はまぐりだけではないのである。
うーん。科学的な予想とは、少し違う方向に流れていきます。
余家海浜、毎秋月極明、水天一色、万頃無波、海中蚌蛤車螯之属、大者如斗、吐珠与月光相射。
余は海浜に家すれば、毎秋、月の極めて明にして水天一色、万頃波無きとき、海中の蚌(ぼう)・蛤(こう)・車螯(しゃごう)の属、大いさ斗の如きもの、珠を吐き月光と相射するなり。
わたしの家は(浙江の)海辺にあるので、毎年、秋になって月のきわめて明るく、海と空が一つの色に見え、見渡すかぎり波が無いような天候のとき、海の中のどぶがい(棒状の貝)やハマグリ(二枚貝)、あるいは大ハマグリの種族で、一斗マスのようにでかいものは、真珠を吐き出して、その光が月と互いに光を反射しあうことがある(のをよく知っている)。
このとき、この照らしあった光は、
倐忽吐成城市楼閣、截流而渡、杳杳至不可見方没。
倐忽(しゅくこつ)として城市楼閣を吐成し、流れを截りて渡り、杳杳として見るべからざるに至りてまさに没するなり。
あっという間に(貝から)吐き出されて都市や高層建築物となり、海流を横断して、はるか彼方の視界の外までつながって、そこで海に沈んでいくのである。
へー。
海浜之人、亦習以為常、不知異。
海浜の人、また習いて以て常と為し、異を知らず。
海べの人の方は、いつも見慣れているので、これが当たり前だと思ってしまって、不思議なことであることを認識していないのである。
へー。
至于蛑蝤蚶蠣之属、積殻厨下、暗中皆成光尺許、就視之、熒熒然、其為海水之気無疑矣。
蛑(ぼう)・蝤(ゆう)・蚶(かん)・蠣(れい)の属に至るまで、殻を厨下に積むに、暗中みな光を成すこと尺許(ばか)り、これを就視するに、熒熒(けいけい)然として、その海水の気為(た)ること疑い無し。
どぶがい・やどかり・あかがい・かきの種族でも、その(身を採ったあとの)殻を台所に積んでおくと、暗闇の中で30センチぐらい届く光を発するものであり、それをじっと見ていると、きらきらとして、それが海水の吐き出す気体であったこと、疑いが無い。
むむむ。
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明・謝肇淛「五雑組」巻三より。最後はあまりの説得力に反論ができないほどです。しかしながら、全体としては、どぶがいやはまぐりが月と照らしあうなど、あまり科学的とは言えません。やっぱり東洋の昔の人の限界でしょう。
わたしども現代人は「習いて以て常と為す」(見慣れてしまって不思議とも思わなくなった)、なんてことはありません。いつだって、欧米のものは優れている、とか、困っている人は自己責任だ、とか正しい知識を持って観察しますからね。