直鉤釣国(直鉤にて国を釣る)(「西湖遊覧志」)
できるものならやってもらいたいものです。

大企業の春闘が爆上げ回答だとかどうたらこうたらだ。みんな舞い踊れるのだろうか。一部のひとだけなのだろうか。
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五代十国の一、呉越国の王であった銭鏐(せん・りゅう)は、まだ唐の節度使であったころ、
于西湖上税漁、名使宅漁。
西湖上において漁に税し、名づけて使宅魚という。
蘇州・西湖の湖面における漁に税をかけることにした。「使宅魚」税といわれる。
節度使・銭鏐の家に届ける分の魚、ということでこういう名前になったそうです。
一日、羅隠入謁。
一日、羅隠、入謁す。
ある日、詩人の羅隠が面会に訪れた。
羅隠は唐末から五代初のひと、唐代に十回科挙試験を受けたが合格しなかったそうですが、詩名は若いころから知られていた。
王の部屋には、
壁有磻渓垂釣図。
壁に磻渓垂釣図有り。
壁面に、「磻渓で釣り糸を垂れている、の図」が描かれていた。
磻渓(はんけい)は陝西にある渓谷、ここに釣魚石という岩があって、遠い昔、紀元前11世紀ごろ、それに腰をかけて一人の老人が釣り糸を垂れていた・・・もちろんこの老人が太公望・呂尚です。
呂尚蓋嘗窮困年老矣。以漁釣奸周西伯。
呂尚、けだしかつて窮困し年老いたり。漁釣を以て周の西伯を奸(もと)む。
呂尚は、つまるところ、当時たいへん貧困であり、年も取っていた。魚釣りをしながら周の西伯(後の文王)に面会できないものかと考えていたのである。
西伯将出猟、卜之、曰、所獲、非龍、非彲、非虎、非羆、所獲覇王之輔。
西伯まさに出猟せんとしてこれを卜するに、曰く、「獲るところは、龍に非ず彲(ち)に非ず、虎に非ず羆に非ず、獲るところは覇王の輔ならん」と。
西伯(後の文王)は、その日、ちょうど猟に出かけようとして、吉凶を占ってみた。占いの結果は―――
―――収穫は、龍ではない。水龍ではない。トラではない。ヒグマ(のようなすごいドウブツ)ではない。収穫は、天下を取るための助けなり。
「へー、ほんとかな」
於是周西伯猟、果遇太公於渭之陽。
ここにおいて周・西伯猟し、果たして太公と渭の陽に遇う。
こうして、周の西伯(文王)は猟に出かけ、結果、(釣りをしていた)太公①と渭水の北のほとりで出会ったのだった。
与語大説曰、自吾先君太公曰、当有聖人適周、周以興。子真是邪。吾太公望子久矣。
ともに語りて大いに説(よろこ)び、曰く、「吾が先君太公より曰うに、まさに聖人の周に適(ゆ)く有りて、周以て興るべし、と。子真に是ならんか。吾が太公、子を望むこと久しきかな」と。
一緒に(国家戦略などについて)いろいろ話して、たいへん喜んで、西伯は言った、
「わたしの亡くなった祖父・太公さま②の時代から、『やがて聖人がこの周の地に来る時がある。それによって周の国は大きくなるだろう』という予言が伝わっている。あなたこそ、まさにその人ではないだろうか。わたしの祖父・太公さま③は、あなたのお見えになることを長い間希望し続けてきたのです」
故号之曰太公望、載与倶帰、立為師。
故にこれに号して「太公望」と曰い、載せてともに帰りて、立てて師と為せり。
そこで、このじじいに「太公さま④の希望」と名前をつけて、馬車に載せて一緒に宮廷に連れ帰り、軍師に任命した。
と「史記」斉太公世家に書いてあります。はじめて読むとみんな混乱するはずなんですが、上の①の太公は後にこのじじいが斉の初代の公に出世したのでそう呼ばれるようになった「斉太公」のことで、つまりこのじじいを将来の名前で表しているのですが、②と③と④の「太公」は西伯の祖父のじじいのことです。なんでこんなわかりにくい書き方をするのか、と司馬遷先生を怒鳴りつけてみたいところですが、何か事情があるのなら言ってもらいたいものですね。
というわけで、「磻渓垂釣図」は、太公望呂尚が釣りをしているところ、おそらくそこに背後から
釣れますかなどと文王声をかけ
ているところを描いたものです。
呉越国王・銭鏐はその画を指して、羅隠に
命題之。
これに題するを命ず。
「この絵に、「題」として詩を書いてくれませんかな」と頼んだ。
銭鏐は文化人を大切にする人だったと言われますので、お願い口調で訳してみました。
羅隠は快く引き受けて、筆を借りると書き始めた。曰く―――
呂望当年展廟謨、直鉤釣国又如何。
呂望、当年廟謨を展じ、直鉤に国を釣る、また如何。
太公望呂尚はその時、国家戦略を展開し、まっすぐな鉤で(魚ではなく)国を釣り上げようとした――うまくいきましたのでしょうか。(歴史事実としてはうまくいきました)
しかし、
仮令身在西湖上、也是応供使宅魚。
仮令(たとい)身は西湖上に在りとすれども、またこれまさに使宅の魚を供すべきや。
もし太公望が今、西湖のほとりに住んでいたとしたら、(殿さまは)やはり太公望からも使宅魚税をお取りになるつもりですか?(こんなことでは、蘇州の太公望(例えば、このわたし)は殿さまに献策しなくなってしまうのではないですかなあ・・・)
銭王は苦笑して、
即罷漁税。
即ち漁税を罷む。
ただちに「使宅魚」税制を廃止した。
これによって蘇州っ子の間の銭王の人気も羅隠の評判もともに高まる、人民も喜ぶ、まさに三方良しの政策でございます、経済界だけが喜ぶやつではなく、貧しい者もシアワセになれたことでございましょう。
「なかなかのやつよの、ふっふっふ」
「王さまほどにはござりませぬ、ぐふぐふぐふ」
羅隠はこの後、銭王の臣下として栄達するのでございます。
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明・田汝成「西湖遊覧志」より。唐末五代から田汝成の時代まで時間がありすぎるので、どこかに他にタネ本があるのではないかと思うのですが、今日はこれ以上探せませんので、悪しからず。
「史記」には針が真っすぐだ、とはどこにも書いてないんですが、如何にもそうだろうという羅隠さまの詩的想像力というものでしょう。ちなみに百年以上後の蘇東坡は「大釣無鉤」(大いなる釣には鉤無し)と釣り針がなかったことになって、その後明代あたりからはさらに糸は水面上三尺のところで切れていたことになって、
太公釣魚、願者上鉤。
太公の魚を釣るは、願う者鉤に上る。
太公望が魚を釣るとき、引っかかるやつはもともと釣り上げられたいやつさ。(大きな志を持つ者には、鉤が無くても食いつくように、ともに仕事をしたがる仲間が集まる)
という慣用句が出来て、現代に至るとのこと。