3月20日 春分まで来ましたがまだ寒い

直鉤釣国(直鉤にて国を釣る)(「西湖遊覧志」)

できるものならやってもらいたいものです。

大企業の春闘が爆上げ回答だとかどうたらこうたらだ。みんな舞い踊れるのだろうか。一部のひとだけなのだろうか。

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五代十国の一、呉越国の王であった銭鏐(せん・りゅう)は、まだ唐の節度使であったころ、

于西湖上税漁、名使宅漁。

節度使・銭鏐の家に届ける分の魚、ということでこういう名前になったそうです。

一日、羅隠入謁。

羅隠は唐末から五代初のひと、唐代に十回科挙試験を受けたが合格しなかったそうですが、詩名は若いころから知られていた。

王の部屋には、

壁有磻渓垂釣図。

磻渓(はんけい)は陝西にある渓谷、ここに釣魚石という岩があって、遠い昔、紀元前11世紀ごろ、それに腰をかけて一人の老人が釣り糸を垂れていた・・・もちろんこの老人が太公望・呂尚です。

呂尚蓋嘗窮困年老矣。以漁釣奸周西伯。

西伯将出猟、卜之、曰、所獲、非龍、非彲、非虎、非羆、所獲覇王之輔。

「へー、ほんとかな」

於是周西伯猟、果遇太公於渭之陽。

与語大説曰、自吾先君太公曰、当有聖人適周、周以興。子真是邪。吾太公望子久矣。

故号之曰太公望、載与倶帰、立為師。

「史記」斉太公世家に書いてあります。はじめて読むとみんな混乱するはずなんですが、上の①の太公は後にこのじじいが斉の初代の公に出世したのでそう呼ばれるようになった「斉太公」のことで、つまりこのじじいを将来の名前で表しているのですが、②と③と④の「太公」は西伯の祖父のじじいのことです。なんでこんなわかりにくい書き方をするのか、と司馬遷先生を怒鳴りつけてみたいところですが、何か事情があるのなら言ってもらいたいものですね。

というわけで、「磻渓垂釣図」は、太公望呂尚が釣りをしているところ、おそらくそこに背後から

ているところを描いたものです。

呉越国王・銭鏐はその画を指して、羅隠に

命題之。

銭鏐は文化人を大切にする人だったと言われますので、お願い口調で訳してみました。

羅隠は快く引き受けて、筆を借りると書き始めた。曰く―――

呂望当年展廟謨、直鉤釣国又如何。

しかし、

仮令身在西湖上、也是応供使宅魚。

銭王は苦笑して、

即罷漁税。

これによって蘇州っ子の間の銭王の人気も羅隠の評判もともに高まる、人民も喜ぶ、まさに三方良しの政策でございます、経済界だけが喜ぶやつではなく、貧しい者もシアワセになれたことでございましょう。

「なかなかのやつよの、ふっふっふ」
「王さまほどにはござりませぬ、ぐふぐふぐふ」

羅隠はこの後、銭王の臣下として栄達するのでございます。

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明・田汝成「西湖遊覧志」より。唐末五代から田汝成の時代まで時間がありすぎるので、どこかに他にタネ本があるのではないかと思うのですが、今日はこれ以上探せませんので、悪しからず。

「史記」には針が真っすぐだ、とはどこにも書いてないんですが、如何にもそうだろうという羅隠さまの詩的想像力というものでしょう。ちなみに百年以上後の蘇東坡は「大釣無鉤」(大いなる釣には鉤無し)と釣り針がなかったことになって、その後明代あたりからはさらに糸は水面上三尺のところで切れていたことになって、

太公釣魚、願者上鉤。

という慣用句が出来て、現代に至るとのこと。

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