莫如日本(日本に如くは莫し)(「仁学」)
昨日、あまりにも眠くてコメントするのを忘れていたのですが、江戸時代、ソバの好きなやつは、少な目のやつの六倍食べる、という記述がありました。0.8✕6倍だと五人前ぐらいか。味わったりせずに満腹感感じる前に食べるしかないが、できないことではないであろう。日本食ならソバですが、さて、今日のお題、何が日本以上のものはない、なのでしょうか?

食べ物のことなら、日本はコメも美味い。しかしギョウザ、カレーなどは他文化から学んだのである。
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清末、十九世紀のチャイナ人(華人)は、成功を夢見てはいけない。まずは立ち上がることからだ。
華人慎毋言華盛頓拿破侖矣。志士仁人求為陳勝楊玄感、以供聖人之駆除、死無憾焉。
華人は慎みて華盛頓(かせいとん)・拿破侖(だはりん)を言う毋れ。志士仁人は陳勝・楊玄感と為るを求め、以て聖人の駆除に供うれば、死するも憾み無からん。
チャイナの人は、真剣に考えて、ワシントンやナポレオンのように権力を獲た人のことを語ってはならない。志あり思いやりある人は、秦に最初の反乱を起こして途中で死んだ陳勝や、隋に最初の反乱を起こして途中で死んだ楊玄感のようになることを求めることだ。そうして、後から来る聖人のために先払いをし、それで死んでもなんの未練も無いであろう。
しかし、今はまだ陳勝や楊玄感のように挙兵するまでには至っていないかも知れない。
若其機無可乗、則莫若為任侠。亦足以伸民気、倡勇敢之風、是亦撥乱之具也。
もしその機の乗ずべき無ければ、任侠を為すに若く莫し。また以て民気を伸ばし、勇敢の風を倡するは、これまた撥乱の具なり。
「撥乱」(はつらん)は「乱を撥(おさ)める」の意です。「乱を発する」ではありません。「春秋公羊伝」哀公十四年、伝の最後に「春秋」全体を評価する一文があります。
君子曷為為春秋。
君子曷(なん)のためにか春秋を為(つく)る。
「立派な方々は、何のために「春秋」を制作したのでしょうか」
撥乱世、反諸正、莫近諸春秋。則未知其為是与。
乱世を撥し、これを正に反すは、諸(こ)れ春秋より近きは莫し。すなわち未だその是がためなるかを知らず。
「撥」は弦を撥ねる、が原義ですが、乱れたものに対しては「撥ね返す」ことによって治まった正しい状態に戻す、の意味になります。なお、二回出て来る「諸」(しょ)は、いずれも「之於」(しお)を一語に縮めたもので、前者は「これを・・・に」、後者は「これ・・・より」と読みます。「於」に「における」と「より」の義があるからです。
「乱れた世を撥ね返し、これを正しい世界に戻す。そのためには、「春秋」を作(って正義とは何かを評価する物差しを作)るよりもよい方法はないからじゃ。けれども、そのためだけに作られたのかどうか、もっと秘密の目的があったのか、はわしにもわからぬ・・・」
この前後、無茶苦茶かっこいい文章なので一度探して読んでみてください。早く読んでみないと肝冷斎が紹介してしまうかも知れませんよ。
閑話休題。
もしも(君主制度に反対して挙兵するような)乗ずべき機会が無いならば、任侠の行動をとるのがよかろう。任侠によって人民たちの士気を上げ、勇敢な気分を盛んにすることができるならば、それも乱れた世の中を正しい状態に戻すための手段といえるだろう。
歴史的にみると、漢がはじめ恐れていた匈奴を、最終的に漠北の地に追いやることに成功したのは、その社会に任侠の風が盛んだった(「史記」「漢書」のそれぞれ「游侠伝」を参照せよ)からだ。次に地理的に考えると、
与中国最近而亟当傚法者、莫如日本。其変法自強之効、亦由其俗好帯剣行游、悲歌叱咤、挟其殺人報仇之侠気、出而鼓更化之機也。
中国と最も近くして亟(すみや)かに傚法すべきものは、日本に如くは莫し。その変法自強の効は、またその俗の帯剣して行游し、悲歌し叱咤するを好み、その殺人して仇を報ずるの侠気を挟み、出でて更化の機を鼓するに由る。
我がチャイナに最も近いところにあって、すぐにそれを真似るべきなのは、日本以上のものはない。(この数十年で)その体制を変え軍を強くする(明治維新)という効果が出たのは、やはりその一般の気分、すなわち、剣を帯びて冒険に出かけ、感情を昂ぶらせて歌を歌い、怒鳴り合うことを好み、かたきを討ち殺して仕返しをする任侠心を持って、公開の場でこれまでの古い体制を改める機会を鼓舞したことによるのである。
なるほど。これが日本のいいところだったんですね。任侠先進国だったのです。
儒者軽詆游侠、便比之匪人。烏知困於君権之世、非此益無以自振抜、民乃益愚弱而窳敗。言治者不可不察也。
儒者は遊侠を軽詆し、すなわちこれを比するに匪人とす。いずくんぞ知らん、君権に困ずるの世はこれに非ざれば益々以て自ら振抜する無く、民はすなわち益々愚弱にして窳敗(ゆはい)するを。
「窳」(ゆ)は、歪む、弱る。
儒者どもは遊侠の徒を軽蔑し謗って、これを順位づけて「人間ではない」という。だが、どうしてわからないのだろうか、君主の権力に苦しむ体制においては、これ(遊侠)でなければどんどん反発することができなくなり、人民はどんどんオロカで弱体化して、ぼろぼろになっていくということが。
儒者どもにわかるはずありません。
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清・譚嗣同「仁学」二・三十四章より。最近「仁学」からの引用が多いんですが、この本を目を皿のようにして読んでいるわけではありません。他の本同様、ふんふん、ほうほうと拾い読みしてて、「お、これいいじゃん」という部分に出くわしたというだけなんです。おそらく、譚氏は科挙ではなく捐官(おカネを出して官職を買うこと)を以て身を立てた人なので、科挙官僚たちみたいに難しい文章を書かないので、わたしのような異国の不学の民にも表現がわかりやすいから、ではないか、と思います。褒めてるんですよ。