苦也苦(苦しきや、苦し)(「草木子」)
食べすぎで苦しいです。しかし明日は休みだからうれしい。

ぶたとのは実在するのか。毛をむしられてただのぶた人間になってしまっているのではないか。
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元の戊寅年、というのは1338年のことです。この年は順帝トゴンテムールの至元四年なんですが、元朝には、世祖フビライ=ハーンにも至元という年号があり(1264~94)、1267年も至元四年。めんどくさいので干支で数えます。
さて、この年のことじゃが、
荊州分域。
荊州分域す。
湖北の荊州を二つに分けた。
すると、
有鬼夜叫云、苦也苦、幾時泥到襄陽府。居人皆聞之而不見其形。
鬼有りて夜叫びて云う、「苦しきや苦し、幾時か泥の襄陽府に到らん」と。居人みなこれを聞くもその形を見ず。
得体の知れぬ妖怪があって、夜に叫び声をあげた。
「苦しいか、苦しいなあ。もうすぐ泥は襄陽の街にも到達するだろう。ひっひっひっひ」
荊州のひとびとはみなこの声を聞いたが、声の主は目に見えなかった。
襄陽府は荊州から漢水を北上したところにある交通の要衝で、この時より60年ほど前、元が南宋を滅ぼした時に数年間にわたって激しい戦いがあった場所です。
早視之、凡樹木不論大小、皆用泥和狗豬毛、離根一二尺泥之、至樹分枝処則止。
早(つと)にこれを視るに、およそ樹木大小を論ぜず、みな泥と狗豬の毛を用いて、根を離るること一二尺までこれに泥し、樹の枝を分ずる処に至りてすなわち止む。
翌朝、ひとびとが声のあったあたりに行ってみると、そのあたりの樹木は大きいのも小さいのも、みなイヌやブタの毛の混ざった泥が、根元から30~60センチぐらいのところまで塗りつけられて、幹から枝が分かれるあたりまで広がっていた。
ひとびとは
「不思議なことですなあ」
「何事も無ければいいのですがなあ」
とうわさしていたが、
後又改叫云、苦也苦、幾時泥到成都府。
後また改め叫びて云う、「苦しきや苦し、幾時か泥の成都府に到らん」と。
その後、内容を変えて叫び声があった。
「苦しいか、苦しいなあ。もうすぐ泥は成都の街にも到達するだろう。ひっひっひっひ」
成都は荊州から長江を西に遡ったところにある四川の州都です。
蓋古今未聞之異也。
蓋し、古今未だ聞かざるの異なり。
それにしても、いにしえより今に至るまで、聞いたこともない不思議な事件であった。
やがて、襄陽も成都も元末の混乱の中で群盗に占領され、略奪された。そして荊州も。
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元・葉子奇「草木子」巻三上・克勤篇より。ひっひっひっひ。こういう声が聞こえたら怖いですね。そんなことにならないように平和と治安を守らなければいけませんよ。
「草木子」(「草木先生」)とは、元~明のひと葉子奇、字・世傑の号です(また静斎とも号す)。葉子奇は浙江・龍泉の出身、若いころ、劉基、宋濂とともに浙西の三学と謳われた知識人でしたが、後、明の太祖・洪武帝が建つと、劉基は参謀、宋濂は文教施策の責任者として大いに用いられた。葉はひとり巴陵主簿(長江中流の巴陵県の総務課長クラス)に命じられたのみで、しかも洪武十一年(1378)、事件に巻き込まれて入獄、洪武帝時代は何度も一度に何千人も死刑になる事件が惹き起こされていたので、彼もほぼ死を覚悟したそうなのですが何とか出獄することが出来た。
獄中にあって書き始めたのが「草木子」(「草木先生の本」)という書物で、釈放後に完成したのですが、
幽憂於獄、恐一旦身先朝露、与草木同腐、実切悲之。
獄に幽憂し、一旦に身の朝露に先んじて、草木と同じく腐らんことを恐れ、実にこれを切悲せり。
獄中で死にそうになりながら不安で、ある朝、自分が朝露より先に、草や木と一緒に地面で朽ちていくことを恐れ、本当にそのことが悲しかった。
という思いから、自らを「草木先生」(草や木とともに朽ちる先生)と称して、この本を書いたのだそうです(「自序」による)。
妖怪よりも権力の方がコワい・・・のに、そちらの方が好きな人がときどきいます。これもまた不思議なことではないか。