力薄不能(力薄くして能わず)(「剣南詩稿」)
年寄りのくせに世の中のことに口を出すのはどうか、と思っております。おカネか力をお持ちの方ならいいのですが。

わしは、おカネや力はないが寿命だけはたくさんあるぞ。
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わしはもう八十四歳なんじゃ(数え歳)。
大耋年光病日侵、久辞微禄臥山林。
大耋(てつ)の年光、病日に侵し、久しく微禄を辞して山林に臥す。
「大耋」(だいてつ)は九十歳のことです。まだ八十四歳ですが、「すごい高齢」の意味でだいたい使っているのでしょう。「年光」は「時間」。
九十歳ぐらいの年になり、毎日病魔にだんだんやられております。
ずいぶん前から給料はもらえなくなって、山中の隠者としてごろごろしております。
雖無歎老嗟卑語、猶有哀窮悼屈心。
二文字目で切れて対句を作るようです。
歎老と嗟卑の語は無しといえども、なお哀窮と悼屈の心は有り。
(自分の)老いを歎いたり身分が低いのを嗟くような言葉は吐くつもりはないが、
この年でも貧窮している者を哀れみ屈している人を悼む心は失っていない。
なんと。
力薄不能推一飯、義深常願散千金。
力は薄く一飯を推す能わざるも、義は深く常に願う千金を散ぜんことを。
資力が薄弱なので、一杯の飯もお薦めできる状況にないが、
正義の思いは深いので、いつも千万円をばらまき(貧しいひとびとの生活に当て)たいと思っているのだ。
でもおカネが無く、力も薄いので仕方ありません。
夜闌感慨残灯下、皎皎孤懐帝所臨。
夜は闌なわにして感慨す残灯の下、皎皎(こうこう)たる孤懐は帝の臨むところならん。
夜は更けて来ましたが消し残りの灯火の下で嘆き節だ、
てかてかとした孤独な思いは、(誰も聴いていなくても)天帝さまが見ていてくださることであろう。
どうでしょうか。見てないような気がしますが。
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宋・陸放翁「冬夜里中不済者多、傖然有賦」(冬夜里中に済(わた)らざる者多く、傖然として賦する有り)(「剣南詩稿」所収)。「不済」、わたらざる、は「河を渡れない」「生活ができていない」の意。若い人の時代なのでわたしは口を噤んでいようと思うのですが、陸放翁じいさんは書いてしまった。カネも力も無い老害のことばなのでみなさん気にしないでいいと思います。明日も平日で働かねばならないのでしょうから。