所履数寸(履むところは数寸なり)(「顔氏家訓」)
余裕とやる気は、すぐに無くなると心得よう。

毎日15時間眠れたら、睡眠時間もゆとりが出る。
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人足所履、不過数寸。然而咫尺之途、必顛蹙於崖岸、拱把之梁、毎沈溺於山谷者、何哉。
人の足の履むところは、数寸に過ぎず。然るに咫尺の途、必ず崖岸に顛蹙し、拱把の梁は、つねに山谷に沈溺するものは、何ぞや。
「咫」(し)は、周代の小尺といわれる長さで、一咫は一尺(周代≒22.5センチ)の八がけの長さになります。18センチぐらいです。しかし、隋の時代には一尺が29センチにまで広がりますので、「咫尺」(しせき)は23センチ~29センチぐらい。
人間の足が実際に履んでいる地面なんて5~6センチもないぐらいだろう。それなのに20~30センチ幅の道を行くとき、必ず断崖にびっくりして立ち止まる。両手で掴むぐらいの太さの木材は、(浮力があるだろうと思うのだが)いつも山中の渓谷に沈んでしまう。これは何故であろうか。
これはいい質問です。しかもこちらが悩まなくても筆者が自分で答えてくれます。すなわち、
為其旁無余地故也。
その旁らに余地無しと為すが故なり。
本体のまわりにゆとりを持たせる、ということを考えていないためである。
崖の方は、足との間に15センチぐらいのゆとりがあるので、それを活用すれば危険ではない。木材の方は一本一本ゆとりを持たせて流せば浮くのに、まとめて流そうとするので流れることができずに沈んでしまうのである。
君子之立己、抑亦如之。至誠之言、人未能信、至潔之行、物或致疑、皆由言行声名無余地也。
君子の己を立つるも、そもそもまたかくの如し。至誠の言も人いまだよくは信ぜす、至潔の行も物あるいは疑いを致すは、みな言行・声名の余地無きに由る。
我々自身の立場も、だいたいやはりこの通りのことになる。ものすごく誠実な言葉であっても他人がなかなか信用してくれず、ものすごく潔癖な行動でもあっても他者が時に疑いを持つのは、すべて言行や評判にゆとりが無いからなのである。
吾毎為人所毀、常以此自責。
吾、人の毀つところと為るごとに、常にこれを以て自責せり。
わたしは、他人から批難されることがあるたびに、いつもこのこと(ゆとりが無いと信用されない)を思い出して、自分のせいだと思うことにしている。
事業についても、
若能開方軌之路、広造舟之航。
もし能くすれば、方軌の路を開き、造舟の航を広げよ。
「方」は並べる。「軌」は車のわだちですから、「方軌」は二台の車が並ぶ、の意。「造」にも「並べる」の意があり、「航」は舟で行くこと、あるいは舟をならべて行く、といった意味になります。
できれば、道は車が二台通れるような広さにし、航路は舟が二艘並べて浮かべられる広さにするとよい。(一番安い方法、ではなく、すべてのことにゆとりを持たせるようにしよう。)
んだそうです。
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隋・顔之推「顔氏家訓」第十「名実篇」より。そのつもりでやってるんですが、ゆとりはすぐ無くなるんで困ります。贅肉は有り余るほどあります。眠気・忘れっぽい・倦怠・ずるずると食べる力、なども分けてあげたい。