桀駕人車(桀は人車に駕す)(「後漢書」)
眠い。この文章も書きながら何度も眠る。

草食の美味いもの食わせないと怒ってくるぞ。
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若いころから五経を学んで
五経紛綸井大春。
五経紛綸す、井大春。
五経がきらきら飾っている、井大春を。
と謳われた井丹、字・大春は後漢の扶風のひとである。たいへん高尚で滅多なことでは人と付き合わなかったので、名刺(当時は木製)を持っていなかったという。
光武帝の建武年間(25~57)の末、沛王をはじめとする五人の王は洛陽の北宮にいて、
皆好賓客、更遣請丹、不能致。
皆賓客を好み、更に丹を請わしむも、致す能わず。
みんな門客(居候の先生がた)を集めるのが好きで、今度は井丹を呼ぼうとして人を遣したが、来てくれなかった。
光武帝の陰皇后の弟、信陽侯・陰就は
以外戚貴盛、乃詭説五王、求銭千万、約能致丹、而別使人要劫之。
外戚を以て貴盛、すなわち五王に詭説して銭千万を求め、約してよく丹を致すとし、別に人をしてこれを要劫せしむ。
皇后の親戚、いわゆる外戚として身分も高いし経済的にも有力であった。彼は上記の五人の王に詐欺まがいの話をして銭千万円を請求し、その代わりに井丹を都に連れてきてみせようと、約束した。実際には別途人を派遣して無理やり脅して都に来させたのである。
丹不得已、既至、就故為設麦飯葱葉之食、丹推去之。
丹已むを得ず、既に至るに、就、故にために麦飯・葱葉の食を設くるに、丹これを推去す。
井丹はしようがないので都に出てきた。そこで、陰就は、わざと彼のために麦飯、おかずはネギの葉という質素な食事を出した。すると、丹はその食事を押し返して、言った―――
以君侯能供甘旨、故来相過、何其薄乎。
君侯のよく甘旨を供うるを以て、故に来たりて相過ぐるなり、何ぞそれ薄きや。
「大貴族の方々は涎の出る美味いものを用意しているというのでやってきたのじゃ。それなのに、どうしてこんなに粗末なものを出すのか」
しようがないので、
更置盛饌、乃食。
更えて盛饌を置けば、すなわち食らう。
取り換えてすごい豪華な料理を出したところ、やっと食べた。
やがて、
及就起、左右進輦。
就起つに及びて、左右輦を進む。
陰就が出かけるということになると、左右の近侍の者たちは、輦(手で担ぐ座席)を準備した。
それを見て、
丹笑曰、吾聞桀駕人車。豈此邪。
丹笑いて曰く、吾聞く、桀は人車に駕す、と。あにこれならんや、と。
井丹は笑って言った、「わしは聞いたことがあるぞ、夏の暴君・桀は、(ウマやウシではなく)人間が引っ張る車に乗っていた、という。(そんなふうに、人間をドウブツのように扱う野蛮な国があるものかと思っていたが、)それをこんなところで観ることができますとはなあ」。
大貴族を悪の王・桀と同一視したのだ。
坐中皆失色、就不得已而令去輦。
坐中みな失色、就已むを得ずして輦を去るを令す。
座にいたものたちはみんな色を失っておどおどし、陰就は仕方なく、人の担ぐ輦を廃止させた。
自是隠閉不関人事、以寿終。
これより隠閉して人事に関せず、寿を以て終われり。
この時以降は隠居して人間関係に関わることなく、寿命まで生きて死んだ。
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「後漢書」逸民列伝より。わしも君侯の食う飯を食ってみたいものだ。むかしは豪華な飯といえばカレーライスとカツ丼ぐらいしか知らなかったが、今ではステーキなども見たことはある。