古今一人(古今に一人なり)(「澠水燕談録」)
この人のような↓生き死にをしなければいけません。ほんとは。

さーたあんだーぎーはあぶらじわじわのところは確かに美味い。かといって太鼓の手を止めるほどではない。
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五代の時代、山東・営丘のひと李成は、
磊落不羈、喜酒善琴、好為歌詩、尤妙画山水。
磊落にして不羈、酒を喜び琴を善くし、好んで歌詩を為(つく)り、尤も山水を画くに妙なり。
岩がごろごろしているみたいに大まかな性格で、何事にもこだわりがなく、お酒をよろこび琴が上手で、歌える詩をつくるのが大好き、一番得意なのは山水の画を描くことであった。
後周(五代最後の王朝)の枢密使・王朴がこれと親しかった。王朴が招いて、一時期、開封に住んでいたが、王朴の死後、また郷里に帰った。
宋初の乾徳年間(963~968)、大司農(農業大臣)の衛融が山東の太守になったとき、
以郷里之旧、延之郡斎日、恣飲竟死于酒。
郷里の旧を以て、これを郡斎の日に延くに、恣ままに飲んでついに酒に死す。
同郷の古い知り合いだといって、郡役場のお祭りの日に招待したのだが、李成は好きなだけ飲んで、酔っぱらって死んでしまったんじゃ。
子どもの李覚がこの時、国子博士をしていたので、おやじの李成も官位を追贈されて、官立の墓地に葬られた。その時、翰林院にいた朱白が墓誌銘を書いている。
成画平遠寒林前人所未嘗為、気韻瀟洒、煙林清曠、筆勢穎脱、墨法精絶、高妙入神、古今一人、真画家百世師也。
成の、平遠の寒林を画くは、前人のいまだ嘗て為さざるところ、気韻瀟洒にして煙林清く曠(ひろ)く、筆勢穎脱して墨法精絶、高妙神に入り、古今の一人、真に画家の百世の師なりき。
李成が平野の冬の林の遠望を描いたものは、これまでの誰もが至ったことのない領域に達していた。雰囲気はさっぱりしていて、もやのかかった林は清らかで広く、筆の勢いは突き抜け、墨の使い方は精密でずば抜け、高踏で巧妙で神秘的で、むかしから今まで彼一人しかこんなひとはいなかった。ほんとうに、あらゆる時代の画家たちが手本として仰ぐものを描いていたのである。
と。以上、すばらしい人生でした。
さて、
翟院深、営丘伶人、師李成、山水頗得其体。
翟院深(てき・いんしん)は、営丘の伶人、李成を師とし、山水に頗るその体を得たり。
翟院深というやつがいた。彼は営丘の役所に所属する芸人で、李成を師匠にして山水画を学び、その画風をたいへんよく受け継いだと言われる。
ある日、府(県庁)で宴会があり、
院深将撃鼓為節、忽停撾仰望、鼓声不続。
院深まさに鼓を撃ちて節を為すに、忽ち撾(う)つを停めて仰ぎ望み、鼓声続かず。
院深が太鼓を打って拍子をとる役で、どんどんと打っていたのに、突然打つのをやめて空を仰ぎ望んだので、太鼓の音が途絶えてしまった。
えらい人が出る宴会にこのような失態が起こってしまったのだ。ああ、たいへんなことである。
左右驚愕、太守召問之。
左右驚愕し、太守召してこれに問う。
宴会係の近侍の者たちはあまりのことに驚いて愕然とした。主役の太守さまは「どうしたのだ?」と院深を呼び寄せて訊いた。
院深は答えて言った、
適楽作次、有孤雲横飛淡佇可愛、意欲図写、凝視久之、不知鼓声之失節也。
たまたま楽を作次するに、孤雲の横飛して淡佇して愛すべき有り、図写せんと意欲して凝視することこれを久しくし、知らず鼓声の節を失えるを。
「うまいこと曲を続けているうちに、離れ雲がふわふわと飛んで、ぼんやりと停まっているのが目に入ってしまい、これはいい、絵に描きたいものだ、としばらく見つめているうちに、太鼓の音を忘れて拍子をとりそこなったのでございます」
と。
太守笑而釈之。
太守、笑いてこれを釈す。
太守様は微笑まれて、特に何の罰もございませんでした。
伶人は官に属する奴隷階級ですから、太守さまは罰することもできれば許すこともできるのです。助かりました。
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宋・王辟之「澠水燕談録」巻七より。ああいい話だなあ、ああためになったなあ。え?どこがよくてどこがためになるかわからない? いや、すごくよくてすごくタメになるじゃないですか。見解の相違としか言いようがないですね。
昨日、確定申告しました。最後に税金払うのにクレジット払いというのを押したら、手数料こちらが払う仕組みでした。既に中小の飲食店や地方スーパーでキャッシュレスに逆行する動きが出ていますが、キャッシュレスの手数料、誰が持って行った? 持って行ったやつがわからないなら確かに「財務省解体」するしかない気がしてきました。毎日の食品に比べて一昨年と昨年の収入ほとんど変わってないし。なんだかだんだん追い込まれてきた感じがします。今はまだ本名の時はにこにこしていい人にしているのですが、ほんとに追い込まれたら・・・。
なお、王辟之は宋のひと、進士となって役人生活をしていましたが、老年に到って郷里の山東・澠水の地に帰って、百姓や漁師と「燕談」(打ち解けて楽しく話す)して聴いたこと、あるいは自分が話したことを記録したのが、「澠水燕談録」です。宋史や宋名臣言行録などのネタ本としても有名です。