読之了不閑(これを読むも閑わず了す)(「李太白詩集」)
老眼で字が読みにくいんです。不老長生に失敗してるんで。

仙人さま、ありがたや。
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唐の李白が泰山に登った。
四月上泰山。石平御道開。
四月泰山に上る。石平らぎて御道開く。
夏の初めの四月に、仙山・泰岳に登った。
石は平らに削られ、天子の通る道が開かれていた。
開元十三年(725)に玄宗皇帝が来たときに整備された道があったんです。
一晩泊ったところ、仙人たちと宴会をする夢を見た。
次の日の朝、
清暁騎白鹿、直上天門山。
清暁、白鹿に騎り、直ちに天門山に上る。
すがすがしい夜明けのころ、わしは白い鹿にまたがって、
真っすぐに向かうのは、天への入り口があるという天門山じゃ。
その途中、
山際逢羽人。方瞳好容顔。
山際にて羽人に逢う。方瞳にして好容のかんばせ。
天門山に差し掛かったころ、羽の生えた人に会った。
四角いひとみで、いい顔をしておられる。
「羽人」(羽の生えた人)とは何者であろうか。
「楚辞」の王逸の注にいう、
人得道、身生羽毛也。
人の道を得るや、身に羽毛を生ず。
人間が「道」と一体化すると、体から羽毛が生えてくるんじゃ。
なるほど。勉強になります。
「方瞳」(四角いひとみ)については、葛洪の「抱朴子」にいう、
仙人目瞳正方。
仙人の目瞳、正方なり。
仙人の目のひとみは、正方形をしている。
人間が八百歳を越えるとそうなるものだという。経験無いので知らんけど。
そこで、この仙人に、
叩夢欲就語、却掩青雲関。
夢を叩きて語に就かんとするも、却って青雲の関は掩わる。
昨夜の夢が正夢かどうか問いただそうと話しかけたが、
逆に青白い雲がたなびいて、天門関が見えなくなってしまった。
これはショック。
仙人に文句を言おうとしたら、仙人も空に昇って行き、
遺我鳥迹書、飄然落岩間。
我に鳥迹(ちょうせき)の書を遺し、飄然として岩間に落つ。
わしに、鳥の足跡のような文字で書かれた秘密の書をくれた。
ふわふわとそれは岩の間に落ちてきた。
拾って読んでみようと思ったのだが、
其字乃上古、読之了不閑。
その字すなわち上古、これを読むも閑(なら)わず了せり。
「閑」には「多く見る」の意あり、「不閑」は多く見てないんだからあまり見てない、馴れていない。
そこに書いてある文字は超古代の文字なので、
読んでみたが、読んだことの無い字で、わからなくて終わってしまった。
あーあ。残念。
感此三嘆息、従師方未還。
これに感じて三たび嘆息し、師に従いてまさにいまだ還らざらんとす。
このことに感動して、わしは三回、ためいきをついた。
仙人の先生のあとについていって、二度と帰ってこないようにしたいのだが。
この日は失敗しましたが、また翌朝も突撃、これも失敗。合計六回チャレンジして一度も仙界まで行けなかった。残念。
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「李太白詩集」より「游泰山」其一の一聯目と、其二の全部。こういう白昼夢そのものを本当にあったことのように書くのは李白ならではです。アタマの構造が我々と違ってしまっているんでしょう。
北宋の元佑六年(1091)八月、わし(肝冷斎にあらず)は柳展如と飲んだ。
一杯便酔、作字数紙。
一杯すなわち酔い、字を作すこと数紙。
一杯飲んだらもうてきめんに酔っぱらってしまい、数枚の紙をもらって字を書きつけた。
いろいろ書いているうちに、自分の字なのに読めなくなってきた。
そこで、上の李太白の詩を思い出して、
戯謂柳生、李白尚気、乃自招不識字。可一大笑。
戯れに柳生に謂う、「李白は気を尚(たっと)び、すなわち字を識らざるを招けり。一大笑すべし」と。
ふざけて柳くんに言うたんじゃ、
「李白は詩を作る秘訣として、でかいこと言う気力を大切にした。そのせいで文字をあまり知らなかったんじゃ。一笑いしてやろうではないか。わははははー」
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宋・蘇軾「東坡題跋」中「書韓李詩」(韓・李の詩を書す)(韓愈と李白の詩を書いた)より。たった一杯だけで酔っぱらってからみ始めたみたいで、後輩の柳展如も、ちょっと嫌な顔していたことでしょう。