譬如木人(譬うれば木人の如し)(「山谷題跋」)
最近そこそこ忙しいんです。しかし、木偶人形のように何も考えずにいます。人間のように悩み、考え、自己主張するような権利も能力ももう無いみたいなので。

今日は都内某所で倉庫の中の仮面を見せていただく。人形や仮面は人間以上に感情を持つことがあるそうである。木偶人形のようなわしもそのうち暴発するかも。
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北宋の黄庭堅には弟があって、黄幼安といいます。
幼安弟、喜作草、携筆東西家、動輒龍蛇満壁。草聖之声、欲満江西。来求法于老夫。
幼安弟、草を作るを喜び、筆を東西家に携えて、動(やや)もすればすなわち龍蛇壁に満つ。草聖の声、江西に満たんとす。来たりて老夫に法を求む。
わしの弟の幼安は、草書で字を書くのが大好きで、筆を持ってあちらへこちらへと彷徨い、ときには、その家の壁が(落書きで)龍やヘビ(草書のくねくねしたのを譬喩で言ってます)でいっぱいになってしまうこともある。「草書の天才」の名声が江西地方一帯に広まりつつあったころ、わしのところに来て、書道の在り方について教えてほしい、というのである。
わしも後世には「宋の四大書家」の一に数えられる草書の名人ではありますが、
老夫之書、本無法也。但観世間万縁、如蚊蚋聚散、未嘗一事横于胸中、故不択筆墨、遇紙則書、紙尽則已。
老夫の書、本より無法なり。ただ、世間の万縁を観て、蚊・蚋(ぶよ)の聚散するが如く、いまだ嘗て一事も胸中に横たえず、故に筆墨を択ばず、紙に遇えば則ち書き、紙尽くれば則ち止むなり。
このじじいめの書には、理論など無い。ただ、この世のいろんな人と人、人と動物などの因縁を観察して、蚊やブヨが集まったかと思うとあっという間に散らばっていくように、これまで何事も胸の中に横たわるようなことが無いようにしてきた。何にもこだわらないから、筆や墨をどこどこ製でなければだめだと択ぶこともなく、紙があったら書く、紙が無くなったら書き終える、というだけのことである。
亦不計較巧拙与人之品藻譏弾、譬如木人。
また、人の品藻・譏弾と巧拙を計較せざること、譬うれば木人のごとし。
また、他人の品定めや批判・攻撃を受けて上手い下手を比較したりしない。たとえば木偶人形のようなものである。
木偶人形は、
舞中節拍、人嘆其巧、舞罷則又蕭然矣。
舞中の節拍に、人その巧みを嘆ずれども、舞い罷むれば則ちまた蕭然たり。
舞っている間は、節や音頭に合わせて、見物人たちは操りの巧みさを嘆賞してくれるけれども、舞が終われば、その時からは何にもしゃべらない。
そんなふうに振る舞っているのである。
幼安然吾言乎。
幼安、吾が言を然りとするや。
幼安さんは、わたしの言っていること、理解できますか。
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宋・黄庭堅「山谷題跋」巻五「書家弟幼安作草後」(家弟・幼安の草を作るの後に書す)。山谷先生が木偶人形を目指していたとは。木偶同士仲良くしたいもんです。