活傀儡戯(活傀儡の戯)(「嘯亭雑録」)
AIやロボットに適わないのは当たり前で、原始的なからくり人形さえ同等レベルである。・・・もちろんわたしのことですよ。みなさんは大丈夫でしょうけど。

←美味そうなヨナグニサンを描いてみました。それにしても、少し前までは最先端技術みたいな雰囲気だったのに、突然の昆虫食攻撃、いったいどういうやつらがわさわさと暗躍しているのでしょうか。気になりますね。
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乾隆五年(1740)、他塔拉氏に属する蘇凌阿という若者が、科挙試験に応じて挙人となった。
満州族だが文章が出来る、というので、若くして中書舎人に抜擢されたが、
請諾於政事堂中、衆皆笑其庸劣。
政事堂中に請諾するに、衆みなその庸劣なるを笑う。
役所の中で、宰相・副宰相、各省の幹部の方々に決裁を持ちまわって了解を得る際、ひとびとはみな、彼が凡庸で無能なので嘲笑していた。
だが、文端公の鄂爾泰さまだけは、
諸君莫軽視蘇公、其人骨相非凡、将来必坐老夫位也。
諸君、蘇公を軽視するなかれ、その人の骨相は凡ならず、将来必ず老夫の位に坐さん。
「きみたち、蘇くんを軽視していてはいかんぞ。あいつの骨柄を見るに凡人とは言えぬで、いつか、必ずこの老人(自分のことです)の座っているこの地位に座ることになるぞ」
清朝中期を代表する名臣・鄂爾泰はこの時既に七十を越えた老成人、若き乾隆帝の信頼も篤く、内閣大学士(宰相)の地位にあられましたが、ちょっとにやにやしていたのでしょうか、
人皆以為公一時謔語。
人みな、以て公の一時の謔語と為せり。
聴いた人たちはみんな、鄂公のその場を和ませるためのジョークだろう、と思っていた。
その後、特にうだつも上がらなかったのだが、
晩年与和相連姻、始洊公卿。
晩年、和相と連姻し、始めて公卿に洊す。
年を取ってから、乾隆末年の権臣・和坤さまと姻戚関係になったために、はじめてどんどん出世したのである。
ただし、
齷齪守位、無甚表見。
齷齪として位を守り、甚だ表見する無し。
「齷齪」(あくさく・あくせく)は、歯並びが稠密なるさま。・・・なんですが、そこから転じて細かい、こせこせする、などの意味に使われます。
こせこせと地位を守るばかりで、大して目立つことはしなかった。
江南総督の時、
貪庸異常、毎接見属員、曰、皇上厚恩、命余覓棺材本来也。
貪庸異常にして、つねに属員に接見して、曰く「皇上の厚恩なる、余に棺材を覓むるを本来に命ずなり」と。
貪欲で無能なこと普通の人ではないほどであった。部下が説明などに出向くと、いつも、
「皇帝陛下はお優しい方じゃ、今回の赴任は、わしが死んだ後の棺桶の材料を探すのを本来業務として命じてくださったんじゃ」
と言うのであった。
人皆笑之。
人みなこれを笑えり。
部下もまわりの人も、みんな蔭では嘲笑していた。
身につまされます。
その後、裁判の間違いで暴動が起こりそうになり、ほうほうの態で都に帰ってきたのであるが、和坤さまの御とりなしで、なんと内閣大学士に任命された。ついに宰相になったのである。
しかるに、
龍鍾目眊至不能弁戚友、挙動頼人扶腋。
龍鍾にして目眊(ぼう)し、戚友も弁ずる能わざるに至り、挙動は人の扶腋するに頼る。
「龍鍾」(りゅうしょう)は年老いて疲れ、ほげほげしていること。「眊」は目がかすんで見えない。
老いぼれてくたびれており、目はかすんで、親戚や友人が来ても誰だかわからず、動くときには誰かに脇を支えてもらわないとならないありさまであった。
当時、とある皇族の方が笑っておっしゃったことには、
此活傀儡戯也。
これ、活傀儡の戯なり。
「あれは、生き人形のからくり芝居だな」
と。
それでもなかなか辞めなかったのですが、和坤さまが失脚して嘉慶帝から死を賜った後、蘇凌阿は歴代皇帝の墳墓の守護を行う職に左遷され、
久之乃卒。
これを久しくしてすなわち卒す。
その後相当生きながらえて、死んだ。
悪評ふんぷんたる人なのですが、とはいえ、
卒践鄂公言、亦一奇也。
ついに鄂公の言を践む、また一奇なり。
結局は若いころの鄂公のコトバどおりになったのである。これも不思議な話ではないだろうか。
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清・愛新覚羅昭連「嘯亭雑録」巻八より。ゲンダイのすぐれた娯楽文化の中では、「生き人形のからくり芝居」なんて見てもオモシロくはなさそうです。はやくWBC始まらないかなあ。