須惜少年時(惜しむべし、少年時)(「楽府詩集」)
この年になって書物に学ぶのも気恥ずかしいのですが、ほかにやることも無いから書物でも読んでおります。若いころもっと読んでおけばよかったのですが、若いころは本なんか読む気になりませんよね。悩んだり暴れたりするのに忙しくて。

「あなたにも復讐はできる」とか「ハウツーリベンジ」とか「楽しい復讐講座」とかを読んでいるわけではないので安心してください。くっくっく・・・。
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最近、読んでてちょっと心を惹かれた詩を二三紹介してみます。
一つ目は、「雑調」唐・無名氏作。
勧君莫惜金縷衣、勧君須惜少年時。
君に勧む、惜しむなかれ金縷の衣、君に勧む、惜しむべし少年の時。
あなたに教えてあげましょう、黄金で縫った豪華な服はもったいない、なんて思ってはいけません。
あなたに教えてあげましょう、もったいないと思わないといけないのは、青春の時である、と。
有花堪折直須折、莫待無花空折枝。
花の折るに堪えたる有らば直ちに折るべく、花無きを待ちて空しく枝を折ることなかれ。
手に入れる価値があると思った花があったら、すぐに折り取って手に入れてね。
折り取ったらもう花がなくなっていたなんてことの無いように。
宋・郭茂倩の編集した「楽府詩集」巻八十二では、「金縷衣」(金の糸で縫った衣)の題名を着けて、唐の李錡という人の作だ、と書いてあるのですが、その記述は、唐の杜牧が
李錡長唱此辞、秋持玉斝、酔与唱。
李錡、長くこの辞を唱い、秋、玉斝(ぎょくか)を持して、酔いてともに唱う。
李錡(り・き)が声を長く伸ばしてこの歌詞を歌った。秋という妓女が玉製のさかずきを持ったまま、酔っぱらって唱和した。
と書いている(「樊川集」)のを見て「李錡の作品」としているだけだそうで、杜牧の言うところを素直に読めば、李錡が歌ったときには秋娘も知っていたわけですから、これは当時の流行歌だった、と考えるべきでしょう。
なお、この「秋」という妓女は、杜牧と同じ苗字だったことになって、「杜秋娘」という名前がつき、書物によっては「杜秋娘作」としているものもあるそうです。ただ、この詩を最初に記録したとみられる唐・韋縠「才調集」では
無名氏(読みびと知らず)作 「雑調」(節もよくわからない)
とされているらしい(民国・黄永武「珍珠船」による)ので、これが正しいのでしょう。
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二つ目は、高麗・毅宗の末年(1170)に、尚書の金莘尹が九月九日の重陽節の宴席で、王に捧げて作った「九月九日」(高麗・李斉賢「櫟翁稗説」後集二より)。この日は、杯に菊を浮かべた長寿の薬・菊酒を飲む習慣が(チャイナから伝わって)あります。
輦下風塵起、殺人如乱麻。
輦下に風塵起こり、殺人乱麻の如し。
王さまの乗るお車の下からは、塵まみれの風が巻き起こり、
あちらこちらで乱れた麻のように人を殺していくような―――。
そんな殺伐とした世の中だけど、
良辰不可負、白酒泛黄花。
良辰には負(そむ)くべからず、白酒に黄花を泛べん。
今日の良き日に背中を向けるわけにはいきませんから、
清い酒に黄色い菊花を泛べて、乾杯いたしましょう。
数か月後には、高麗王朝を揺るがす「庚寅の変」というクーデタが起こり、武臣らが権力を奪取、多くの文官が殺され毅宗も廃位される、という直前の不安定な政治情勢のもと、とはいえ、おめでたい宴席でこの詩はしびれますね。
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宮崎滔天「三十三年の夢」を読んでいます。吉野作造先生お薦めのやたらオモシロい本ですが、ほんとにオモシロいですね。明治にはこんな人がごろごろいたんでしょう。
・・・武田範之、大崎正吉二君は余が旧友なり。当時朝鮮王妃暗殺事件の廣島疑獄に連累し、一旦縲絏の苦を嘗めたれども、既に許されて自由の民となり、日々余が寓に来たりて共に飲む。・・・・酔後、武田君筆を執りて余の為に法名を贈る。曰く「騰空庵」(とうくうあん)。余其何の意なるを知らず。為にこれを釈かんことを乞ふ。
すると、筆を執って、こんな詩を書いて示してきた。
騰騰騰古今、空空空天地。
騰騰(とうとう)として古今に騰がり、空空(くうくう)として天地空し。
ひょい、ひょい、と時間を超えて飛んで行き、からり、からり、と天地の間で役立たず。
独歩天地外、向上何妙意。
独り天地の外を歩めば、向上して何の妙意ぞ。
ひとり天地の外まで歩み出て、どんどん上れば気持ちよかろう。
余、猶其の深意を解する能はず、再びこれが説明を求む。彼笑ふて曰く、絶命前一秒の間には人皆悟入すべし。面倒臭いよせよせと。また杯を挙げて共に痛飲す。
あんまり意味は無かったのでしょう。
席に持して常に酌を採るものは主婦なり。厚遇歓待尋常にあらず。二君余を揶揄して曰く、此の若後家は君に意あるぞと。・・・出発の前夜、主婦、下婢二人を携へ来たりて共に余が室に眠る。豈に瓜田の履にして止むを得んや。
どうして、(瓜の田でくつの紐を結ぶと瓜泥棒と疑われるから瓜田にくつを履いて入るな、というが、疑われるだけの)瓜の田のくつで済ますことができただろうか。・・・いや、できなかった。
と言っています。
この乗りで毎ページ毎ページ何か仕出かしながら転がるように生きて、シャムに行ったり香港に行ったり東京から熊本、長崎、上海と走り回っている。わしもがんばらねば、人に迷惑かけたり嫌われたりしていても何の問題が有るのであろうか、と励まされますよ。