為有道者(有道者為(な)らん)(「山谷題跋」)
寒くて、かつ暖房が弱いので、長いのを紹介してられないんです。そこで、今日は黄山谷先生の印象的な短文を。
立冬以来約3か月間がんばってきましたが、そろそろ体力尽きてきたので明日は起きられないかも。

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北宋のころのことですが、
陳留市上有刀鑷民。
陳留の市上に刀鑷(とうじょう)の民有り。
「刀鑷」(とうじょう)は刀で顔を剃り、鑷(毛抜き)で毛を抜く理容業。「顔剃り」と訳しておきます。
河南・陳留の町に顔剃りを生業にしている者がいた。
年四十余、無室家子姓、惟一女、年七八歳矣。
年四十余、室家子姓無く、ただ一女の年七八歳なるのみ。
年のころは四十過ぎでしょうか、女房や跡取りがいるわけでもなさそうで、ただ、七八歳の娘一人だけをいつも連れていた。
日以刀鑷所得銭与女子酔飽、酔則簪花、吹長笛、肩女而帰。
日に刀鑷して得るところの銭を以て女子と酔飽し、酔えばすなわち花を簪し、長笛を吹き、女を肩にして帰る。
毎日、顔剃り仕事で稼いだお金で娘と大衆食堂で飯を食い、一杯やり、気持ちよくなると花をかんざしにして、長い笛を吹きながら、娘を肩に載せてどこかに帰っていく―――。
無一朝之憂、而有終身之楽。
一朝の憂い無く、而して終身の楽有り。
今日一日、何の心配ごとも無いのだろう。そのくせ、生きている限りの幸せはあるのだろう。
ああ。
疑以為有道者也。
疑うらくは、以て有道者為らんかと。
もしかしたら、道を究めたひとなのかも知れない・・・と思ったりする。
さて、どうなのでしょうか。
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宋・黄庭堅「山谷題跋」巻六より。突然死したらどうするんだとか子どもの将来はとか、そういうのは「一朝の憂い」の一種なんだと思いますよ。女の子はピノコかも知れませんし。
ああ、わたしも明日の朝行かなくてよければ「一朝の憂い」が無いのだが。