復讐之議(復讐の議)(「春秋公羊伝」)
今日は節分。はやく春が来ないかなあ、どうでもいいけどなあ、とごろごろしていましたところ、
「肝冷斎よ、復讐の心を忘れたか!」
と言われたような気がした。 え? 誰に? 何の?

コンビ〇の恵方巻の宣伝がずいぶん控えめになった。食品ロスや貧窮家庭問題のほか、伝統的な行事でないことが明らかになったこともあるのであろう。
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前漢末のひと周党、字・伯況は太原・広武のひとである。もとたいへんな富豪の子であったが、
少孤、為宗人所養、而遇之不以理、及長、又不還其財。
少にして孤、宗人の養うところと為るも、これに遇すること理を以てせず、長ずるに及んで、またその財を還さず。
幼いころに孤児になって、親類の家で育てられた。だが、その家では自分の考えるようには処遇されず、成人してからも財産を返還してもらえなかった。
そこで、
党詣郷県訟、主乃帰之。
党、郷県に詣(いた)りて訟え、主すなわちこれを帰す。
周党は県庁に行って訴訟したので、育ててくれた親類は財産を返してくれた。
頭に来ると筋を通さないと気が済まない。
しかし、財産を返してもらうと、
散与宗族、悉免遣奴婢、遂至長安遊学。
宗族に散与し、悉く奴婢を免遣して、遂に長安に至りて遊学す。
それを親類中にばらまいた。下男下女を全員解放し、それから都・長安に出て学問を始めたのであった。
一方で、義侠心に富む若いやつ、という評判が高まった。
さて、まだ広武にいたころ、
郷佐嘗衆中辱党。
郷佐、かつて衆中に党を辱しむ。
「郷佐」は当時、収税を補佐した村役人のことです。
村役人の一人が、みんなのいるところで党をバカにしたことがあった。
党久懐之。後読春秋、聞復讐之議、便輟講而還、与郷佐相聞、期剋闘日。
党、久しくこれを懐(おも)う。後、春秋を読み、復讐の議を聞きて、すなわち講を輟めて還り、郷佐と相聞して、闘日を期剋せり。
党は長いことこのことを忘れないでいた。その後(長安で)、「春秋」の書を読み、「復讐論」を聴いて、突然受講を止めると帰郷して、村役人と連絡を取り、決闘の日を約束した。
当時の「春秋」は「公羊伝」の全盛期です。したがって周党が学んだ「春秋」は「公羊伝」のことです。その学派の「復讐の議」(復讐論)は以下のようなものであった。どうぞ、清末チャイナに大流行した「春秋公羊学派」の聖典「公羊伝」の独自のスタイルを味わってみてください。
―――魯・荘公の四年(紀元前690)、かねてより斉は紀の国に圧迫をかけていたのですが、この年三月、襄公の妃・紀伯姫が卒したのを機に、
紀侯大去其国。
紀侯、その国を大去す。
紀国の殿さまが、その国を大々的に去った。
「大去す」・・・て何ですか?
という疑問は昔の人も持った。「公羊伝」に曰く、
大去者何。
大去なるものは何ぞ。
―――「大々的に去った」というのはどういう行為ですか?
滅也。
滅せるなり。
―――滅ぼされたということじゃよ。
孰滅之。
孰れかこれを滅ぼせる。
―――では、誰が滅ぼしたんですか?
斉滅之。
斉これを滅ぼせり。
―――斉の国がこれを滅ぼしたんじゃよ。
曷為不言斉滅之。
曷(なん)為(す)れぞ、「斉これを滅ぼす」と言わざる。
―――では、どうして「斉が紀を滅ぼした」と書かないんですか?
為襄公諱也。
襄公のために諱(い)むなり。
―――(斉の君主で、実質的に紀の国を滅ぼした)襄公さまのために直接言うのを避けたんじゃよ。実は、
斉襄公九世祖哀公亨於周、紀侯譖之也。故襄公讐於紀。
斉襄公九世祖の哀公、周に亨(に)らるるは、紀侯これを譖するなり。故に襄公、紀に讐す。
―――斉の襄公の九代前の先祖・哀公さまは、周の王さまに憎まれて釜茹での刑にされたんじゃ(。「亨」は「烹」の本字じゃぞ)。これは、当時の紀の国の殿さまが讒言したからじゃった。そこで、襄公は、紀の国にご先祖さまの復讐をしたのじゃ。
復讐だから、「滅ぼす」という道義上悪いことをしたわけではないので、「滅ぼす」と書かずに、紀侯の方が「大々的に逃げた」と言ったわけ。
九世猶可復讐乎。
九世なお復讐すべきか。
―――九代前の怨みでも復讐というのはすべきことなんですか?
だいたい襄公は、紀侯のおねえちゃん(紀伯姫)をお嫁さんにもらって何十年も一緒にやってたんですよね。復讐というのなら、どう考えても九代前ではなくて、おねえちゃんに対する怨みが原因では?
雖百世可也。
百世といえども可なり。
―――復讐は、百代前のことであっても、してよろしい。
なぜなら、正義の遂行であるから。
・・・・・これを読んで、周党は「復讐しなければならない」と思い込んだのである。
決闘の日、
既交刃、而党為郷佐所傷、困頓。
既に刃を交うるに、党、郷佐の傷つくるところと為り、困頓す。
白刃を交えて決闘したところ、党は村役人に傷つけられて、気を失ってしまった。
みじめです。
郷佐服其義、与帰養之。数日方蘇、既悟而去。
郷佐その義に服し、ともに帰りてこれを養う。数日にしてまさに蘇り、既に悟りて去る。
村役人はもともと義侠心に厚いと認めていたこともあり、彼を担いで家に帰って手当をした。数日後に意識を取り戻し、状況を理解して黙って帰って行った。
自此勅身修志、州里称其高。
これより身を勅し志を修め、州里その高なるを称せり。
これ以後は、自らの身を正し、志を整えて学問に精を出したので、地元ではその高尚な行動と人柄が称えられるようになったのである。
王莽が前漢を簒奪して新(9~24)を建てると、
託疾杜門。
疾に託して門を杜(と)ざす。
病気だという理由で郷里の実家に引きこもってしまった。
自後賊暴縦横、残滅郡県、唯至廣武、過城不入。
自後、賊暴縦横し、郡県を残滅するも、ただ廣武に至りては城を過りて入らず。
その後、新への反乱が起こり、群盗たちが好き放題をして、多くの町や村が残虐に全滅させられたが、廣武の町だけは(「賢者の周党さまがいるところだからな」「悪さしてはならんぞ」と)中に入らずに通り過ぎて行って、被害がなかったのである。
後漢が建国(25)され、世の中が落ち着いたころ、光武帝から召し出されました。一度は断りましたが、再度お召があって、今度はとにかく都・洛陽までは来い、という。
不得已、乃著短布単衣、穀皮綃頭、待見尚書。
已むを得ず、すなわち短布単衣し、縠皮綃頭して、尚書に見を待つ。
しようがないので、出かけて行って、丈の短い単衣の服を着、ちりめんの絹で鉢巻をして(いずれも知識人のいでたちではなく、労働者の服である)、宮廷で会見を待った。
及光武引見、党伏而不謁。自陳願守所志、帝乃許焉。
光武の引見に及んでは、党伏して謁せず。自ら志すところを守るを願うを陳(の)べ、帝すなわち許せり。
光武帝に引見されたときは、党は平伏したままで顔を上げなかった(仕草で臣従することを否定したのである)。そして平伏したまま、仕官しないという自らの志願を陳述し、帝のお許しを得たのであった。
さすがにこの態度には批判する者があったが、若いころ隠者を志していた時期もあった光武帝は、苦笑まじりに言った、
自古明王聖主必有不賓之士。伯夷叔斉不食周粟。太原周党不受朕禄、亦各有志焉。
いにしえより明王・聖主にも必ず賓せざるの士有り。伯夷叔斉は周の粟を食まず。太原の周党は朕の禄を受けざるも、またおのおのの志有るなり。
「古代から、どんなに明察な王者、どんなに神聖な君主の時代にも、必ず、君主が客としてもてなすこともできない名士というのがいたものなのじゃ。周の武王の時代でも、伯夷と叔斉は、周で収穫された穀物は食わない、と言って餓死してしまったではないか。太原の周党がわしの給料をもらう気は無い、という志も、同様に尊重されてしかるべきであろう」
かくして、
党遂隠居黽池、邑人賢而祠之。
党、遂に黽池(べんち)に隠居し、邑人賢としてこれを祠せり。
周党は最終的には廣武の奥の黽池の村に隠棲して生涯を終えた。地元の村人たちは、彼を賢者として、神社を建てて祀ったのである。
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「後漢書」巻八十三「隠逸伝」より。「復讐の議」は刺身のツマで、ほんとは後漢の時代の「隠者」のカッコいいお話なのです。「復讐」より「隠逸」こそより良き人生でありましょう。わたしはもう怨んでおりませんぞ、〇〇さん。くっくっく・・・(含み笑い)。
しかし「春秋公羊伝」は滅多に引用しませんので、今日はその「公羊伝」の方の「復讐之議」を題名に立てておきます。

「公羊伝」とおいらたちヒツジとは関係ないんでメー。「公羊」は「公」(こう)と「羊」(よう)の反切(一文字目の頭の子音(K)と二文字目の母音(you)を組み合わせて一音にする)で、「姜」などの姓を表すのではないかと言われているでメー。「春秋公羊伝」は「春秋姜氏伝」というワケでメー。むにゃむにゃ。