2月3日 六地蔵はまだ来ないのかな?

復讐之議(復讐の議)(「春秋公羊伝」)

今日は節分。はやく春が来ないかなあ、どうでもいいけどなあ、とごろごろしていましたところ、
「肝冷斎よ、復讐の心を忘れたか!」
と言われたような気がした。 え? 誰に? 何の?

コンビ〇の恵方巻の宣伝がずいぶん控えめになった。食品ロスや貧窮家庭問題のほか、伝統的な行事でないことが明らかになったこともあるのであろう。

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前漢末のひと周党、字・伯況は太原・広武のひとである。もとたいへんな富豪の子であったが、

少孤、為宗人所養、而遇之不以理、及長、又不還其財。

そこで、

党詣郷県訟、主乃帰之。

頭に来ると筋を通さないと気が済まない。

しかし、財産を返してもらうと、

散与宗族、悉免遣奴婢、遂至長安遊学。

一方で、義侠心に富む若いやつ、という評判が高まった。

さて、まだ広武にいたころ、

郷佐嘗衆中辱党。

村役人の一人が、みんなのいるところで党をバカにしたことがあった。

党久懐之。後読春秋、聞復讐之議、便輟講而還、与郷佐相聞、期剋闘日。

当時の「春秋」は「公羊伝」の全盛期です。したがって周党が学んだ「春秋」は「公羊伝」のことです。その学派の「復讐の議」(復讐論)は以下のようなものであった。どうぞ、清末チャイナに大流行した「春秋公羊学派」の聖典「公羊伝」の独自のスタイルを味わってみてください。

―――魯・荘公の四年(紀元前690)、かねてより斉は紀の国に圧迫をかけていたのですが、この年三月、襄公の妃・紀伯姫が卒したのを機に、

紀侯大去其国。

「大去す」・・・て何ですか?

という疑問は昔の人も持った。「公羊伝」に曰く、

大去者何。

滅也。

孰滅之。

曷為不言斉滅之。

斉襄公九世祖哀公亨於周、紀侯譖之也。故襄公讐於紀。

復讐だから、「滅ぼす」という道義上悪いことをしたわけではないので、「滅ぼす」と書かずに、紀侯の方が「大々的に逃げた」と言ったわけ。

九世猶可復讐乎。

なぜなら、正義の遂行であるから。

・・・・・これを読んで、周党は「復讐しなければならない」と思い込んだのである。

決闘の日、

既交刃、而党為郷佐所傷、困頓。

みじめです。

郷佐服其義、与帰養之。数日方蘇、既悟而去。

自此勅身修志、州里称其高。

王莽が前漢を簒奪して新(9~24)を建てると、

託疾杜門。

自後賊暴縦横、残滅郡県、唯至廣武、過城不入。

後漢が建国(25)され、世の中が落ち着いたころ、光武帝から召し出されました。一度は断りましたが、再度お召があって、今度はとにかく都・洛陽までは来い、という。

不得已、乃著短布単衣、穀皮綃頭、待見尚書。

及光武引見、党伏而不謁。自陳願守所志、帝乃許焉。

さすがにこの態度には批判する者があったが、若いころ隠者を志していた時期もあった光武帝は、苦笑まじりに言った、

自古明王聖主必有不賓之士。伯夷叔斉不食周粟。太原周党不受朕禄、亦各有志焉。

かくして、

党遂隠居黽池、邑人賢而祠之。

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「後漢書」巻八十三「隠逸伝」より。「復讐の議」は刺身のツマで、ほんとは後漢の時代の「隠者」のカッコいいお話なのです。「復讐」より「隠逸」こそより良き人生でありましょう。わたしはもう怨んでおりませんぞ、〇〇さん。くっくっく・・・(含み笑い)。

しかし「春秋公羊伝」は滅多に引用しませんので、今日はその「公羊伝」の方の「復讐之議」を題名に立てておきます。

「公羊伝」とおいらたちヒツジとは関係ないんでメー。「公羊」は「公」(こう)と「羊」(よう)の反切(一文字目の頭の子音(K)と二文字目の母音(you)を組み合わせて一音にする)で、「姜」などの姓を表すのではないかと言われているでメー。「春秋公羊伝」は「春秋姜氏伝」というワケでメー。むにゃむにゃ。

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