2月29日 もうグローブ買ってくれないかも

生民之初(生民の初め)(「仁学」)

おカネを持っている人が分配してくれなくなると困ります。

富は分かち合うものなんニャ。

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生民之初、本無所謂君臣、則皆民也。民不能相治亦不暇治、於是共挙一民為君。

そうだったんですね。

夫曰共挙之、則非君択民、而民択君也。

夫曰共挙之、則其分際又非甚遠於民、而不下儕於民也。

夫曰共挙之、則因有民而後有君、君末也、民本也。天下無有因末而累及本者、亦豈可因君而累及民哉。

あってはならない。

夫曰共挙之、則且必可共廃之。

そうですか。

君也者、為民弁事者也。臣也者、助弁民事者也。賦税之取於民、所以為弁民事之資也。

これには近年反対論があるんだそうです。国家財政とは、税金ではなく国債によって集められた資金をいかに分配するかということで、税金はその起債のための担保でしかない、という考え方があります。なるほど、起債による原資ですから、人民どうしの間で再分配されるのではなく、起債した国家が最も価値を感じる人・分野におカネを配分する、という考え方になります。国家財政論に根本的な変更がなされている(既に実態として)という・・・のだが本当か。もう同じ国民と互いを思いやる存在でさえないのか、われわれは。

閑話休題。

如此而事猶不弁、事不弁而易其人。亦天下之通義也。

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清・譚嗣同「仁学」二より。さすがは「中国流血第一烈士」(梁啓超の評)といわれる譚瀏陽先生の文章です。わかりやすい。事案が処理できなければ為政者を替えるのが「天下の通義」だそうです。

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