生民之初(生民の初め)(「仁学」)
おカネを持っている人が分配してくれなくなると困ります。

富は分かち合うものなんニャ。
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生民之初、本無所謂君臣、則皆民也。民不能相治亦不暇治、於是共挙一民為君。
生民の初め、もといわゆる君臣無く、すなわちみな民なり。民の相治むる能わず、また治に暇あらず、ここにおいて共に一民を挙げて君と為す。
人民がこの世に生じたそのはじめのころは、もともと君とか臣とか言うものは無く、誰もが人民であった。人民はお互いの行動を抑制しきれないし、集まってすべてのことを差配する時間もない。そこで、ともに一人の人民を択び挙げて、君主としたのである。
そうだったんですね。
夫曰共挙之、則非君択民、而民択君也。
それ、共にこれを挙ぐと曰わば、すなわち君の民を択ぶにあらずして、民の君を択ぶなり。
さて、ともにそれを推挙した、というのだから、君主が人民を選んだのではなく、人民が君主を選んだのである。
夫曰共挙之、則其分際又非甚遠於民、而不下儕於民也。
それ、共にこれを挙ぐと曰わば、すなわちその分際はまた民より甚だしくは遠きにあらず、而して民に儕(ひと)しきよりは下らざるなり。
さて、ともにそれを推挙した、というのだから、君主の身分というのは、人民から非常に遠くかけ離れたものではない。また、人民と同等以下、にはならないであろう。
夫曰共挙之、則因有民而後有君、君末也、民本也。天下無有因末而累及本者、亦豈可因君而累及民哉。
それ、共にこれを挙ぐと曰わば、すなわち民有るに因りて後君有り、君末なり、民本なり。天下に末に因りて累の本に及ぶ者有る無く、また豈に君に因りて累の民に及ぶべけんや。
さて、ともにそれを推挙した、というのだから、人民があって、それをもとにして君主があるのだ。君主は末で、人民が本である。この世の中に、末が原因になって本に影響を及ぼすというものがあるであろうか。また言い換えれば君主が原因で、人民に影響を及ぼすということがあっていいのであろうか。
あってはならない。
夫曰共挙之、則且必可共廃之。
それ、共にこれを挙ぐと曰わば、すなわちまさに必ず共にこれを廃するも可なり。
さて、ともにそれを推挙した、というのだから、今度はともにそれを廃止することもできるわけだ。
そうですか。
君也者、為民弁事者也。臣也者、助弁民事者也。賦税之取於民、所以為弁民事之資也。
君なるものは、民のために事を弁ずる者なり。臣なるものは、民の事を弁ずるを助くる者なり。賦税の民に取るは、民の事を弁ずるの資を為す所以なり。
君主というのは、人民のために事案を処理する者のことである。臣下というのは、人民の事案を処理するのを助ける者のことである。税金を人民から徴収するのは、人民の事案を処理する原資にするためなのである。
これには近年反対論があるんだそうです。国家財政とは、税金ではなく国債によって集められた資金をいかに分配するかということで、税金はその起債のための担保でしかない、という考え方があります。なるほど、起債による原資ですから、人民どうしの間で再分配されるのではなく、起債した国家が最も価値を感じる人・分野におカネを配分する、という考え方になります。国家財政論に根本的な変更がなされている(既に実態として)という・・・のだが本当か。もう同じ国民と互いを思いやる存在でさえないのか、われわれは。
閑話休題。
如此而事猶不弁、事不弁而易其人。亦天下之通義也。
かくの如くして事なお弁ぜざれば、事弁ぜられずしてその人を易う。また天下の通義なり。
こんなふうにしてもなお事案が処理できないようであれば、事案が処理できないことを理由にその人を交代させる。これもまた世界共通の道理である。
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清・譚嗣同「仁学」二より。さすがは「中国流血第一烈士」(梁啓超の評)といわれる譚瀏陽先生の文章です。わかりやすい。事案が処理できなければ為政者を替えるのが「天下の通義」だそうです。