故破其瑟(故にその瑟を破りたり)(「史記」)
五十を二十五にしたり、二十五を五十にしたりすると本質が変わることもあるのだそうです。量の変化が質の変化を規定する、とかなんとか。

古代、審神(さにわ)を行うものは、琴の音によってエクスタシーを得、忘我の中で神のことばを伝えたのである。
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漢・武帝の時のことですが、公孫卿というひとが、河南で神を見た、と報告してきた。
見遷人跡城上。有物如雉、往来城上。
遷人の跡を城上に見たり。物有りて雉の如く、城上を往来す。
仙人の足跡が城の上に見つかりました。それだけでなく、何ものかがいるのです。キジのようなものです。それが、城の上をあちらへこちらへと行くのです。
とのことである。
武帝は河南に出かけて行って、仙人の足跡を見た。確かに足跡である。キジのようなものは、その日は出なかった。
武帝は言った、「文成や五利のようなことではないのだろうな」と。
文成も五利も、不老長生の方法があると言い、仙人の姿を見たと言い、ついに虚言と疑った武帝によって先年誅殺せられたばかりの寵臣である。
公孫卿は言った、
僊者非有求人主、人主求之。其道非少寛仮、神不来。
僊者の人主に求むるに非ず、人主これを求むるならん。その道、少しく寛仮にすに非ざれば、神来たらざるなり。
仙人がお殿さまに会いたいとやってきているのでございましたでしょうか、お殿さまが仙人に会いたいのではございませんでしたでしょうか。その方法は、少しは寛大に心得て、ぎりぎりと疑ったりしてはなりません。厳しく考えすぎると、神は来てくれますまい。
少々疑わしいところがあっても、信じなければなりません。
言神事、事如迂誕。積以歳、乃可致。
神事を言うは、事迂誕なるが如し。積むに歳を以てすれば、すなわち致すべし。
神々のことを口にする際は、なにごとも遠回りしてばかげたことに見えるものでございます。しかし、長い月日をかければ、必ず神々にお見えいただけることになります。
「そうか」
ここにおいて、
郡県各除道、繕治宮観名山神祠所、以望幸矣。
郡県おのおの道を除し、宮観名山神祠の所を繕治して、以て幸を望む。
地方行政体である郡や県は、それぞれ(神の通る)道をきよめ、道教寺院や名山や神社のところを修理し補正して、神さまがお見えになるのを待つこととした。
この年、南越国を亡ぼすことに成功した。
上有嬖臣李延年、以好音見、上善之。
上、嬖臣・李延年を有し、好音を以て見(まみ)え、上これを善とす。
帝は、お気に入りの近臣・李延年をご寵愛されていた。もとは音楽が得意だというので謁見し、そのままお気に入りとなったのである。延年から、
「音楽関係者をもっともっと宮廷にお入れくだされ」
と言われて、
帝は、公孫卿に諮問した。
民間祠尚有鼓舞之楽、今郊祠而無楽、豈称乎。
民間の祠もなお鼓舞の楽有り、今郊祠にして楽無きは、あに称すべけんや。
民間の祠でも太鼓と舞いの「音楽」があるのに、現在国が実行している郊外祭りにも音楽が無いのは、つりあいが取れてないと思わないか。
公孫卿は答えて言った、
「まったく、お殿さまの言うとおりにございます!」
古者祀天地、皆有楽。而神祇可得而礼。
古しえは天地を祀るにみな楽有り。而して神祇、得て礼すべきなり。
むかしは、天と地を祀るときには、いつも音楽を奏したものでございます。そうすることによって神々はうやまうことができるのでございますから。
或曰。
或いは曰えり。
ああっとそうだ、言い忘れるところでございました。
泰帝使素女鼓五十弦瑟、悲。帝禁、不止。
泰帝、素女をして五十弦瑟を鼓せしむるに、悲なり。帝禁ずるに、止めず。
太昊帝・伏犠さまがむすめの素女(そじょ。「白い女」)さまに五十弦の瑟を鼓せしめたところ、その音楽が悲しすぎて、ひとびとは労働をしなくなってしまった。そこで帝はその演奏を禁じたが、素女は止めなかった。
故破其瑟為二十五弦。
故にその瑟を破りて二十五弦と為せり。
そこで、帝はその瑟を破壊し、半分にして、二十五弦の楽器にした。
「なにすんだよ、このくそおやじ!」
と言ったか言わなかったかはわかりませんが、素女は半分になった瑟を弾いたところ、なおその音色は人を動かすに足りたが、度を越して悲しくはなかった。
・・・そうでございます。今こそ、音楽を興すべきときでございましょう。
於是塞南越、祷祠泰一后土、始用楽舞。益召歌児、作二十五弦及箜篌。瑟自此起。
ここにおいて南越を塞し、泰一后土を祷祠して、始めて楽舞を用う。益々歌児を召し、二十五弦及び箜篌を作せり。瑟はこれより起こる。
ここにおいて、南越を閉じ込める祭祀を行って、泰一后土(天下の土地を一つに統一する地の神)に祈りを捧げるためと称して、音楽とそれに合わせて舞うことが始まったのである。(それまでは無かったのである。)どんどん歌い手たちを召し出して雇い、また二十五弦の弦楽器と箜篌(くご)と呼ばれる竪琴を作った。(これも、実はこれまでなかったのだ。)二十五弦の弦楽器も伝説の楽器(五十弦)と同じ「瑟」と呼ばれ、これ以降盛んになる。
公孫卿の運命がそろそろ心配になってきませんか。
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「史記」武帝本紀より。いまでもえらいひとのまわりはこんな感じで、二千年前とあんまり変化がないです。みなさんところはどうですか。