学於万物(万物に学ぶ)(「昨非録」)
なんで毎日こんなに寒いのか。大自然よ教えてくれ。

とカッパも言っております。風邪に気をつけよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
ホントは清代なんですが、見た目は春秋戦国時代のような雰囲気です。
畜文魚僂者、寤崖子之隣也。
文魚を畜う僂者、寤崖子の隣なり。
「僂者」は「背中の曲がった障がい者」と毎回言うのもめんどくさいので、以下は「猫背」としておきます。「寤崖子」(崖で目覚めた先生)は作者の自称。
模様のついた魚を養殖している猫背のおやじが、寤崖先生の隣に住んでいた。
寤崖子向聞畜是魚者、水宜井、雨入焉則病。試之果然。閒以語僂者。
寤崖子向(さき)にこの魚を畜わう者に聞くに、水は井が宜しく、雨入らば病む、と。これを試みるに果たして然り。閒に以て僂者に語る。
寤崖先生は、以前、その魚を飼養している人から、「井戸水で飼うのが適切で、雨水が入ると弱ってしまうんだよ」と聞いたことがあり、試してみたところそのとおりだった。ある時、先生は猫背おやじにそのことを話した。
おやじは言った、
瞀哉、子之畜魚也。子信以為魚之性病雨乎。
瞀(ぼう)なるかな、子の魚を畜なうや。子まことに以て魚の性、雨に病むと爲すか。
「何も見えておられないのだな、先生の魚の養殖は。先生は、本当に魚は生まれつき雨によって弱ってしまう、とお思いか」
「はあ」
今、夫民之生於北者不畏寒、生於南者不畏暍、非其性也、其習也。
今、夫(か)の民の北に生ずる者は寒きを畏れず、南に生ずる者は暍(えつ)を畏れざるは、その性に非ざるなり、その習いなり。
「暍」(えつ)は「暑気あたり」「熱中症」です。
「譬喩で言ってみますが、北の土地で生まれた人民は寒さを心配しない。南で生まれた人民は熱中症を心配しない、といいます。それは人間の本性がそうだから、ではなく、生まれてからの学習がそうさせるのです」
「へー」
夫魚之生卵於水也、草則承之。必置水於他器、移草於中、燠諸日、一日而芚、再日而蘇、三日而其中隠然如有物、四日而化。
夫の魚の水に卵を生ずるや、草すなわちこれを承く。必ず水を他器に置き、草を中に移してこれを日に燠すれば、一日にして芚し、再日にして蘇り、三日にしてその中に隠然として物有るが如く、四日にして化せり。
「その魚は水中でタマゴを生んで、水草に生みつけます。このとき、水を入れた器を用意し、タマゴの産みつけられた草をその水中に移して、日光に当てておくと、翌日には何かが芽を出し、二日後には動き始め、三日経つとはっきりとタマゴの中に何かがあるのがわかり、四日目で孵化します」
「ほう」
使其初、不雨之避、則芚焉者已与雨相習、況継此乎。
その初めに、雨を避くるをせざれば、すなわち芚すればすでに雨と相習い、況やこれに継ぐをや。
最初、雨を避けないで置けば、何かが芽を出したところでもう雨に慣れて雨への対応を学習してしまいます。さらに二日目以降もそうであれば、さらに慣れます」
「ほほう」
今育卵者始則取水於井、而避雨如恐不及、是既習於井矣、而雨何以入焉。
今、卵を育てる者、始めはすなわち井に水を取り、雨を避くること及ばざるを恐るるが如くすれば、これ既にに井に習うなり、而して雨何を以て入らんや。
「そこで、タマゴを孵化させようとしている人が、最初に井戸水を取ってきてこれを使い、その後雨を避けて、絶対に触れないようにさせれば、これはもうタマゴを井戸水に慣れるように学習させているのですから、雨水に慣れることはできません。
つまり、育て方がそうだから、雨水で弱ってしまうだけなんです」
「そ、そうですか。わたしは、ひ、ひとから教わっただけなんです」
畜魚之久者孰与吾。未或有病於雨者、使之熟習焉而已、豈別有所以易其性也哉。
魚を畜なうことの久しき、吾と孰れぞや。いまだ雨に病まざる者或いは有りて、これをして熟習せしむるのみなれば、あに別にその性を易うる所以有らんや。
「魚の養殖経験は、その人とわたしとどちらが豊富でしょうか(わたしに敵う者はいますまい)。まだ雨をいやがるようになっていない魚がいたら、これを(雨水に)じっくり慣れさせて学習させるだけで(、雨水で弱るということはなくなりま)す。特別に生まれつきを変えるわけではありません」
寤崖先生は以上の話を聞いて、
恍然若有悟也、欲進請其所学。
恍然として悟る有るがごとく、その学ぶところを請い進めんと欲す。
ぼんやりとして何かがわかったような気がし、猫背おやじの知っていることをさらに教えてもらえるよう求めようとした。
その時、横から、
弟子尋至曰夫子何与彼言。今将有切問也。
弟子、尋ね至りて曰く、「夫子何をぞ彼と言う。今まさに切問有らんとす」と。
弟子がやってきて、言った、「先生、その人と何を話しておられるのですか。今、どうしてもお聞きしたいことがあるのですが」と。
何問。
何をか問う。
「何が訊きたいんじゃ?」
将問乎性与習也。
まさに、性と習いとを問わんとすなり。
「生まれつきの性質と慣れて身に着ける習慣との違いを質問したいんです」
先生は言った、
性観其習、習乃成性。
性はその習いを観よ、習いすなわち性と成るなり。
「生まれつきの性質について知りたければ、どういう学習をしているかを調べなさい。要するに、学習したことが性質になるんです」
「はあ?」
請益、不答。
益を請うも答えず。
もっと教えてほしいと言っても答えようとしない。
頃之、指僂者。
頃之(しばらく)ありて、僂者を指さす。
しばらくしてから、猫背のおやじを指さして言った。
蓋師此。此至人也。至人学於万物、性習之理、吾与爾深求之而愈閡者、此乃於畜魚得之也。
なんぞこれを師とせざる。これ至人なり。至人は万物に学び、性習の理は吾と爾と深くこれを求むるにいよいよ閡(とざ)さるるに、これすなわち畜魚においてこれを得たり。
「どうして(わしなんかより)この人に教えを請わないのか。この人は最高人間さまじゃぞ。最高人間さまは、あらゆる物事からお学びになる。わしとお前は、長い間、ものの本質と学習による変化について深く考えてきたのだったが、考えれば考えるほど行き詰ってしまった。だが、いまやその問題は、魚の養殖の学びによって、解決を得たのじゃ」
「なんと!」
よかったですね。
・・・・・・・・・・・・・・・
清・劉熙載「昨非録」巻一より。わたくしも一定の師や学閥は無く、万物に学んでおります。立春が過ぎたのにこんなに寒いとは、何かよからぬことが起こっているのではないか。もしかして二酸化炭素が減ってきているのかも。