吾債了矣(吾が債、了せり)(「右台仙閣筆記」)
おカネが無ければみんなシアワセになれたのカモ知れません。

ウシはマジメに働くタイプでもー。岡本全勝さんに紹介されたでもー。
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清の時代のことですが、
有舅負其甥銭二十万者、自言無力償之、死則為牛以償耳。
舅の其の甥に銭二十万を負える者有り、自ら言うにこれに償うに力無く、死すれば則ち牛と為りて以て償わんのみ、と。
「舅」はもちろん妻の父も指しますが、ここでは「母方の伯父」のことです。
その甥に二十万銭の借金をしている叔父がいたが、自分で言うには、「わしにはカネを返す力が無い。死んだあとウシになって、甥のために働いて二十万銭を返すしかないのじゃ」と。
已而其舅死、甥家即於是日生一犢。甥知其為舅也。不以常牛畜之、毎出游、必与倶。
すでにしてその舅死するに、甥家にこの日に即ち一犢を生じたり。甥、その舅たるを知れり。常牛を以てこれを畜わず、出游するごとに必ず与に倶す。
そのうちに、叔父は死んだが、まさにその日、甥の家に一頭の子牛が生まれた。甥は、「これは叔父さんだろう」とわかったので、普通のウシのようには育てずに大切にし、まだ子牛であったが、甥が出かける時にはいつも連れて歩いていた。
ある日、
途遇一叟、負盆盎之属、而鬻於市。
途に一叟に遇う、盆盎の属を負いて、市に鬻(ひさ)がんとすなり。
路上で一老人に出会った。老人はお皿(「盆」)や鉢(「盎」)のたぐいを背負って、これから市場に売りに行こうとしていた。
牛触之、砕其盆盎。叟怒撻牛、甥急止之曰、此吾舅也、願勿撻、吾当償盆盎。
牛、これに触れて、その盆盎を砕く。叟怒りて牛を撻たんとし、甥、急にこれを止めて曰く、「これ吾が舅なり、願わくば撻つなかれ、吾まさに盆盎を償うべし」と。
子牛はこの老人に(知ってか知らずか)ぶつかり、そのお皿や鉢は落ちて砕けてしまった。老人は怒って子牛をぶん殴ろうとしたので、甥は急いでそれを押しとどめて、
「これはわたしのおじさんなんです。ぶん殴るのは止めてやってください。わたしがお皿と鉢を弁償しますから」
と言った。
「ほう、そうか、おまえさんが飼い主か。それにしても「おじさん」とな?」
叟異其言、問之、告以故。
叟その言を異なりとし、これに問うに、告ぐるに故を以てす。
老人はその言葉を不思議がり、事情を訊いてきたので、これまでのことをあらまし話した。
すると、老人は顔色を変えて、
若舅為誰。
なんじの舅、誰と為すや。
「おまえさんのおじさんは、なんという名前じゃ?」
と訊いてきた。
告以姓名、叟曰、此人在日、吾負其銭若干、未有以償也。今計盆盎之値適如其数。
告ぐるに姓名を以てするに、叟曰く、この人在りし日、吾その銭若干を負い、いまだ以て償う有らず。今、盆盎の値を計るにその数に適如せり。
おじの姓名を告げると、老人は、「そうであったか。彼がまだ在世中に、わしは彼にいくばくかのカネを借りておった。それをまだ返していない。今、壊れたお皿と鉢の値段を数えると、ちょうど借りたカネと同じになる。
だから、差し引きで弁償は要らん。それよりも、ありがとう。ずっと気になっておったのじゃ」
老人は甥の手を握って言った、
吾債了矣。
吾が債、了せり。
「わしはやっと借金を返し終えたのじゃ、うっしっしー」
欣然而去。
欣然として去れり。
本当にうれしそうに去って行った。
甥は「相手がわかっていてやったんだな」とウシの頭を撫でたが、ウシは「もー」と知らん顔をしているばかりであった。
またある日、
遇重車陞甗、号而求助。
重車の甗を陞らせんとして、号して助けを求むるに遇う。
運送屋が、大きなこしき(釜を載せて炊くための用具)を載せた車を引いて坂を登ろうとして、助けを求めて呼びかけてきたのに出会った。
あまりに重すぎるようで、甥は子牛には無理かと逡巡したが、
牛助之。
牛これを助く。
牛は自分で近づいて行って、車を引くのを助けた。
たいへん重い車で、子牛は何度も何度も喘ぎ、ふらふらになった。
既登、重人謝曰、君恵吾甚厚、可値銭二百千也。
既に登りて、重人謝して曰く、君、吾に恵むこと甚だ厚く、銭二百千に値うべし、と。
坂を登り終えたところで、運送屋は何度も頭を下げて言った、
「おまえさん、わしは本当に助かった。こんなによくしてもらったのだ、銭200×1000差し上げよう」
「おじさん、二十万銭だ」
と言ったか言わないかのうちに、
牛長鳴而斃。
牛、長鳴して斃る。
子牛は、「もーーー」とひときわ長く鳴いて、死んだ。
「よかったな」
甥は死んだ子牛の頭を撫でて祝福した。
運送屋は申し訳ながって、さらに数万銭を払おうとしたが、甥は、
「そんなことをされたら、今度はまたわたしが返さなければならなくなりますから」
と丁重に断ったということである。
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清・兪樾「右台仙閣筆記」巻十より。原始時代にはそんなことは無かったであろうに、文明社会ではおカネが転生をも支配することになってしまったのです。おカネの無い時代にはそんなことにはなっていなかったであろうに。「徳」とか「気合」とかを貸し借りしていたのかも知れませんが。
ちなみに、現代では、税金は再分配されるのではなくて、政府が政策に利用する資金の起債のための担保でしかないんだそうです。したがって税金払っても必要な人のところに回ることはないので、善良な市民は払わなくても道徳的には問題がない、との説があるそうですよ。なるほどなあ。
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