一偽喪百誠(一偽、百誠を喪う)(「顔氏家訓」)
そろそろ春になったかと思って帰京しましたが、やっぱり寒いですね。なかなか裸で暮らせない。こんなだからウソや偽りが幅を利かせるのであろう。寒いので観タマ記は明日更新します。

我々は誠実に「寒いの最高」と考えているダルマー。
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南北朝の時代のことですが、
吾見世人、清名登而金貝入、信誉顕而然諾虧。不知後之矛戟、毀前之干櫓也。
吾、世人を見るに、清名登りて金貝入り、信誉顕らかにして然諾虧(か)く。後の矛戟の前の干櫓を毀つを知らざるや。
わたしが(この年に到るまで)世間の人たちを見てきたところでは、清廉だという名が高まってからお金や宝物を得たり、信用と名誉で有名になった後に人の依頼を断るようになったりする人がある。この人たちは、後での行動が矛や戟になって、前の行動の楯や櫓を壊してしまっている、ということがわかってないのだろうか。
わかってないんだと思いますよ。
わかってないんだとすると、オロカなことである。むかしの人のコトバを引けば、「孔子家語」(屈節解篇)に曰く、
宓子賤云誠於此者形於彼。
宓子賤(ふく・しせん)云う、「ここに誠なれば彼しこに形(あら)われん」と。
孔子の高弟・宓子賤が言った、「ここで誠実にすれば、どこかでそれは実るはずなんじゃ」と。
ホントかな?・・・と思うかも知れませんが、
人之虚実真偽在乎心、無不見乎迹。但察之未熟耳。
人の虚実真偽は心に在りて、迹を見ざること無し。ただ、これを察するの未熟なるのみ。
人間の言動のウソ・ホント・まこと・いつわり、これらが心の中にあれば、その形跡が現われないことは無いのだ。わからないとすれば、それが観察される状態まで熟していない、というだけなのだ。
もし、
一為察之所鑑、巧偽不如拙誠。承之以羞大矣。
一たびこれを察して鑑みるところと為れば、巧偽は拙誠に如かず。これを承くれば以て羞じること大なり。
ひとたび、それが観察されて人に知られることになったならば、「うまい誤魔化し」は「拙い誠実」にまったく及ばない。そんな状態になったら、大大的に恥ずかしいことになる。
わしなら耐えられないぐらいである。
近有大貴、以孝著声、前後居喪、哀毀逾制、亦足以高於人矣。
近く大貴の、孝を以て著声なる有り、前後の居喪に哀毀制を逾え、また以て人より高しとするに足れり。
最近のことじゃが、たいへんな貴族の方で、親への孝行で評判になった方がおられた。父母の喪に服している時に、悲しみによって自らの心身を傷めること(には決まりがあるのだが)、決まりを超えて、確かに誰よりも立派だ、と評価されるに足りるほどであった。
ところが、
而嘗於苫塊之中、以巴豆塗瞼、遂使成瘡、表哭泣之過。左右童豎、不能掩之。
しかるに嘗て、苫塊の中において、巴豆(はず)を以て瞼に塗り、遂に瘡を成さしめ、哭泣の過を表す。左右の童豎、これを掩う能わざるなり。
それなのに、一度、(服喪中の)苫屋での生活の中で、ハズの実から採った油をまぶたに塗ってかさぶたを作り、あまりにも泣き過ぎたような顔にしていたことが判明した。近侍の下僕や奴隷どもが(言い触らして)、隠しおおせなかったのである。
「巴豆」(はず)は生薬としては下剤に使われ、毒性も強いのですが効き目も強い、という植物ですが、それを絞ってとった油も効果が強く、皮膚をかぶれさせる効力があったようです。真似してはいけません。
このため、ただでさえ疑う人がいたのに、
益使外人謂其居処飲食、皆為不信。
ますます外人をしてその居処飲食を謂いてみな不信を為さしむ。
ますます外部の人たちに、その人の日頃の生活態度、飲み食いまでいろいろ噂され、誰からも信用されなくなってしまった。
ああ。
以一偽喪百誠者、乃貪名不已故也。
一偽を以て百誠を喪うは、名を貪ることの已まざる故なり。
一つの偽りによって百の誠実を失ってしまったのは、名声をさらに得ようという欲望が止まなかったためである。
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隋・顔之推「顔氏家訓」第十「名実篇」より。誠実でないことがバレたら一段とまずいようです。教訓としてキモに銘じてくだされよ。中には、わざとバレて「あいつは誠実なフリをしてわたしに気に入られようとしている、愛いやつじゃ」と褒められるという高度な技術の人もいるかも知れませんが、そんなことしてどうなるのか。エンマさまに怒られるよ。