空嚢而帰(空嚢にして帰る)(「幾希録」)
今日は天皇誕生日。働かないで某所(どこかについては別途観タマ記で報告予定。これが標題につながっているわけです。笑)で君が代を歌う。平和な時代に生まれ育って有難いことである。あとは去っていくだけである。

おめでとうございます。明日は振替休日だ。ありがとうございます。
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明の天啓年間(1621~27)、河南開封の祥符県の車夫・金芳というひとは、
貧而好施。遇荒年、自吃糠粞豆渣、見饑寒残疾人、必施一二文。
貧にして施しを好む。荒年に遇うに、自ら糠粞・豆渣を吃らい、饑寒残疾の人を見るに、必ず一二文を施す。
貧乏だが人に施しを与えるのが大好きだった。ある飢饉の年など、自分はヌカの殻、マメを絞ったカスなどを食いながら、飢えている人・寒さに震えている人・体の不自由な人・病気の人を見ると、必ずなけなしの一文・二文(100円とか200円?)を与えるのだった。
「車夫」というと、我々にとっては「人力車を挽くひと」ですが、チャイナ近代の「車夫」は「荷車を推すひと」です。人力車より技術も不用であり、人力車夫が必要とする接客業務も必要ではありません。もちろんその分、さらに社会の底辺です。
毎日推車得銭、随路散去、空嚢而帰。
毎日車を推して銭を得るに、路に随いて散去して、空嚢にして帰れり。
毎日、車押し労働で賃銭を得ても、帰り道で困った人を見るたびに銭を施してしまって、家に帰りつくころには、財布を空っぽにしてしまっているのだった。
どうしようもありません。計画性や自己責任感が無いのですから、新自由主義社会ではもちろん、一般の修正資本主義社会においてもダメおやじ、とされてしまうでしょう。「本当に彼はダメだなあ、わはは」「いひひ」「うふふ」と嘲笑う声が聞こえる。だが、それ以外の社会があれば評価されるかも。
有時雨雪不出、常忍饑一二日、不怨也。
時に雨雪にして出でざる有れば、常に饑えを忍ぶこと一二日にして、怨まざるなり。
雨や雪になって仕事も無く、ずっと家にいるときには、いつも何も食うものもなく数日我慢しているしかないのだが、別に文句もないようであった。
そんなふうに生きて、
年六十四歳、遇無心昌老、贈呑丹薬、髪白復黒、歯落重生。郷里皆異之。
年六十四歳、無心昌老に遇い、丹薬を贈呑して、髪白きがまた黒く、歯落ちたるが重生せり。郷里みなこれを異とす。
六十四歳(数え)になったとき、無心昌老人さま(という仙人)に出会い、仙人の薬をもらって飲んだ(らしい)。白くなっていた髪がまた黒くなり、抜け落ちていた歯がまた生えた。町のひとびとはたいへん不思議がった。
もしかして、勝者になったということでは。みなさん、「なぜおれではなくやつが・・・」と嫉妬してはいけません。得意淡然、失意泰然です。
後復遇昌老、随之而去、不知所終。
後、また昌老に遇い、これに随いて去りて、終わるところを知らず。
その後、また昌老人さまに出会って、その人と一緒にどこかに行ってしまった(のであろうか)。どこで最期を迎えたのかわからない。
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清・仲瑞五堂主人「幾希録」より(近人・袁嘯波編「民間勧善書」所収)。「去り方」は考えなくてもいいのでしょう。ネコのように最期は何処へ行ったかわからなくなったり、ゴミ屋敷のあと片づけ悪くて迷惑かけたとしても、そいつがあっち側に来たときに謝ればいいだけですね。うっしっし。よし、終活は無し。ツバキのように落ち行くのみじゃ。迷惑考えずに生きていることになりました。