登高望九州(高きに登りて九州を望む)(「詠懐詩」)
九州行きたいですね。

ネコの日記念にエサ寄こすニャ。
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晋の時代のことですが、
独坐空堂上、誰可与歓者。
独り空堂の上に坐せば、誰かともに歓ぶべき者ぞ。
ひとりでがらんどうの建物に坐している。
どこに、ともに楽しく語らう友がいるだろうか。
友だちがいないのでしょう。身につまされます。
さびしくなってきたので、
出門臨永路、不見行車馬。
門を出でて永路に臨むに、行く車馬を見ず。
門を出て、遠くへ続く道を眺めた。
しかし、往来する馬も車も見えない。
それでは、と、
登高望九州、悠悠分曠野。
高きに登りて九州を望むに、悠悠として曠野を分かつ。
この「九州」は古代チャイナの九つの地域区分を指し、要するに(当時の)オイクメネ(人間の棲む地)全体、「世界中」の意味です。もちろん、「人閒」には野蛮人や夷狄や類人猿を含みません!
高いところに登って、世界を見渡してみた。
はるかな彼方まで、原野が広がり、九つの州に分かたれているのだ。
けれど、
孤鳥西北飛、離獣東南下。
孤鳥は西北に飛び、離獣は東南に下る。
孤独な鳥が、西北に向けて飛んでいくのは見える。
群れを離れたケモノが、東南の湿地帯に下っていくのも見える。
どこにも人はいない。
日暮思親友、晤言用自写。
日は暮れて親友を思い、⁵晤言して用って自写す。
「晤言」は「ひとり言」の意。「自写」の「写」はそのままでは意味がわかりませんので、「瀉」(そそぐ)の仮借だと考えてみます。
日が暮れてきましたが、親しい友はどこにいるであろうか。
一人ごとを言いながら涙を流している。
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晋・阮籍「詠懐」詩其十七。ヒミコと同じ時代の人の内面世界ですよ、と言われればその先進性に気づいていただけましょう。気づかないと白眼視されますよ。ちなみにわたしは九州説でも畿内説でも無くて「ヒミコ非実在説」です。チャイナの歴史書信用する気にならないので。