止行一歩(一歩を行くに止まる)(「右台仙館筆記」)
王さま「歩の無い将棋は負け将棋。捨て駒は必要だ」おいらたち「金になっても「と金」と呼ばれるのさ」王さま「ホンモノの金より使い捨て。相手に取られたときには、金ではなく「歩」にしか使えないからな」飛車・角行・金・銀たち「あははは、そりゃそうでございますねえ」「元がダメだということか、いひひひ」「うふふ」「へへへ」「おほほ」

泣き寝入りにゃー。
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「析字術」という占いがあります。文字を使って占う、というものですが、やり方はいろいろあるらしい。
現在(清末)に、
江湖間挟此技糊口者、先有一定之字、各就其字習成口訣、以応問者。此豈能有中哉。
江湖の間にこの技を挟みて糊口する者、先に一定の字有りて、おのおのその字に就きて口訣に習成し、以て問者に応ず。これ豈に能く中する有らんや。
「江湖」は、「世間」ですが、一定の土地に定住する農民や知識人の世界ではなく、武芸者や芸能民のように、川や湖を移動するひとびと、非常民の「世間」をいいます。「糊口」は糊のような薄い粥を食っている、ぎりぎりの生活をしていることです。
この「析字術」でぎりぎり渡世している者たちは、まず何百字かの決まった字があり、これらの字にはそれぞれ、既に出来上がった「決まり文句」があって、占いたい人が来ると、裏向きにしたカードから一枚を選ばせ、そのカードに書かれた文字ごとの「決まり文句」を教える、という形で対応している。これでは、占者の知りたいことにズバリ当たる、ということがあるだろうか(いや、ないだろう)。
しかしながら、百年少し前、乾隆年間の蘇州の人、范時行は
頗善此術。曾至吾邑、寓紫陽観。
すこぶるこの術を善くす。かつて吾が邑に至り、紫陽観に寓せり。
この析字術の名人で、一度わたしの村にやってきて、道教寺院の紫陽観に仮住まいしていたことがあった。
所言不煩、而悉有意義。毎日以得銭六百為率。銭足則謝客寂座。
言うところ煩ならざるも、悉く意義有り。毎日、銭六百を得るを以て率と為す。錢足れば謝客して寂座せり。
その占断の言葉はあまり煩雑ではないが、すべてに意味のある占いをした。毎日、六百銭を稼ぐのを決まりしていて、銭がそこまで貯まるとお客があっても断り、一人で静かに座しているのであった。
范の占いは、多数の文字から一文字を選ばせるのは普通の人と同じであったが、それに対する答えが深い人間洞察と神秘的な予測力で割り出されるので、常に占いを求める者にぴたりとした答えが出せるのである。
占いは悩む人に進むべき道を示すための技術。本当に当たるかどうかは実は二の次。歩き出せるようにするのが占いであって、歩いた先に何があるかを決めるのはただの希望、あるいは予測なのだ。
ある時、まだ若い屈強な若者が、「棋」の字の札を手に取った。
「何を問いますのかな」
終身休咎。
終身の休咎を。
「生涯のよいこと、悪いこと。すなわち運勢の大概を」
「ほう、ほう、ほう」
范は何やら心にイメージが見えたようで、うたうように語った、
囲碁之子、愈著愈多、象棋之子、愈著愈少。
囲碁の子はいよいよ著(ちゃく)していよいよ多く、象棋の子はいよいよ着していよいよ少なし。
囲碁の「石」なら、打てば打つほど増えて来る。象棋の「駒」は、打てば打つほど減っていく。
なんだか含蓄のある「意義ある」言葉ですね。中国象棋は取った相手の駒を使うことができません。終盤になればなるほど盤上の駒は少なくなる。
今所拈是棋字、非碁字、是棋字、恐家中人口日益凋零矣。
今、拈るところ、これ「棋」字、「碁」字に非ず、これ「棋」字、恐らくは家中人口日にますます凋零せん。
今、おまえさんが取ったカードは「棋」の字であって「碁」の字でない。「棋」の字であれば、おそらくおまえさんの家の一族の数はだんだん減りつつあるであろう、おまえの家はこのままでは衰えていくぞ」
その人は言った、
是也。然此非所問。問日後如何耳。
是(ぜ)なり。然るにこれ問うところに非ず。日後如何を問うのみ。
「そのとおりです。しかし、そのことをお聴きしたいのではない。これからのわたしの運勢がどうなるかを知りたいのです」
「ほう。ほう。ほう」
観爾装束、是行伍中人、乃象棋中所謂卒也。
爾の装束を観るに、これ行伍中の人ならん、すなわち象棋中のいわゆる「卒」なるか。
「おまえさんのいでたちから察するに、おまえさんは兵隊さん、つまり、象棋の駒でいえば「卒」(将棋の「歩」です)に該当する職業身分とみる」
若者は頷いた。
卒在本界、止行一歩、若過河後、即縦横皆可行。以是言之、爾宜外出方可得志。
卒は本界に在りては、行くこと一歩に止(とど)まるも、もし河を過ぐるの後は、即ち縦横みな行くべし。是を以てこれを言うに、なんじ、よろしく外に出方すれば志を得べきなり。
「「卒」の駒は、こちら側の自陣では間にひとつづつしか進めない。けれど「河」(といわれる中間地帯)を越えて敵陣に入り込むと(歩が金になるように)前だけでなく左右にも動けるようになる。このことから占うに、おまえさん、旅に出て、遠いところに行きなされ、おまえさんの夢をかなえるために」
「それでは、河北地方、例えば北京などに行けば、大きなことが・・・」
「待たれい、待たれい」
卒過河亦止行一歩、縦爾外出、亦不能大得志也。
卒は河を過ぎるもまた行くこと一歩、もしなんじ外出するも、また大いには志を得ざらん。
「「卒」の駒は、河を越えても左右にも行けるようになるだけで、一マスづつしか進めないのは変わらない。おまえさんは遠くに行っても、そんなに大きな出世をするわけではないからな、そこは身に相応の夢をかなえるつもりが肝腎じゃ」
この占いが当たったかどうかは、わからない。一歩一歩進むことが実は一番しあわせに近づく方法かも。若者が自分の生き方を決めるよすがになったとすれば、占者の仕事はそこまでなんじゃ。
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清・兪樾「右台仙館筆記」巻十より。お医者さんで目薬もらったけどまだまだ目が開きづらいので、今日はここまで。明日もこの続きをやります。楽しみにねー!(ああ、だが講釈師の言葉を聴き、悲歌に耳貸す者が何人いるのであろうか。みずあめぐらい買って欲しいものです。)
防災庁が話題になっています。占い師は要らないと思いますが、飛車角金銀、桂馬香車(専門家)、そして歩(したっぱ)、いろんな職種のひとは必要だと思います。ちゃんと組織設計してやってくだされや。