2月21日 防災庁に占い師はおそらく要らない

止行一歩(一歩を行くに止まる)(「右台仙館筆記」)

王さま「歩の無い将棋は負け将棋。捨て駒は必要だ」おいらたち「金になっても「と金」と呼ばれるのさ」王さま「ホンモノの金より使い捨て。相手に取られたときには、金ではなく「歩」にしか使えないからな」飛車・角行・金・銀たち「あははは、そりゃそうでございますねえ」「元がダメだということか、いひひひ」「うふふ」「へへへ」「おほほ」

泣き寝入りにゃー。

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「析字術」という占いがあります。文字を使って占う、というものですが、やり方はいろいろあるらしい。

現在(清末)に、

江湖間挟此技糊口者、先有一定之字、各就其字習成口訣、以応問者。此豈能有中哉。

「江湖」は、「世間」ですが、一定の土地に定住する農民や知識人の世界ではなく、武芸者や芸能民のように、川や湖を移動するひとびと、非常民の「世間」をいいます。「糊口」は糊のような薄い粥を食っている、ぎりぎりの生活をしていることです。

しかしながら、百年少し前、乾隆年間の蘇州の人、范時行は

頗善此術。曾至吾邑、寓紫陽観。

所言不煩、而悉有意義。毎日以得銭六百為率。銭足則謝客寂座。

范の占いは、多数の文字から一文字を選ばせるのは普通の人と同じであったが、それに対する答えが深い人間洞察と神秘的な予測力で割り出されるので、常に占いを求める者にぴたりとした答えが出せるのである。

占いは悩む人に進むべき道を示すための技術。本当に当たるかどうかは実は二の次。歩き出せるようにするのが占いであって、歩いた先に何があるかを決めるのはただの希望、あるいは予測なのだ。

ある時、まだ若い屈強な若者が、「棋」の字の札を手に取った。

「何を問いますのかな」

終身休咎。

「ほう、ほう、ほう」

范は何やら心にイメージが見えたようで、うたうように語った、

囲碁之子、愈著愈多、象棋之子、愈著愈少。

なんだか含蓄のある「意義ある」言葉ですね。中国象棋は取った相手の駒を使うことができません。終盤になればなるほど盤上の駒は少なくなる。

今所拈是棋字、非碁字、是棋字、恐家中人口日益凋零矣。

その人は言った、

是也。然此非所問。問日後如何耳。

「ほう。ほう。ほう」

観爾装束、是行伍中人、乃象棋中所謂卒也。

若者は頷いた。

卒在本界、止行一歩、若過河後、即縦横皆可行。以是言之、爾宜外出方可得志。

「それでは、河北地方、例えば北京などに行けば、大きなことが・・・」

「待たれい、待たれい」

卒過河亦止行一歩、縦爾外出、亦不能大得志也。

この占いが当たったかどうかは、わからない。一歩一歩進むことが実は一番しあわせに近づく方法かも。若者が自分の生き方を決めるよすがになったとすれば、占者の仕事はそこまでなんじゃ。

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清・兪樾「右台仙館筆記」巻十より。お医者さんで目薬もらったけどまだまだ目が開きづらいので、今日はここまで。明日もこの続きをやります。楽しみにねー!(ああ、だが講釈師の言葉を聴き、悲歌に耳貸す者が何人いるのであろうか。みずあめぐらい買って欲しいものです。)

防災庁が話題になっています。占い師は要らないと思いますが、飛車角金銀、桂馬香車(専門家)、そして歩(したっぱ)、いろんな職種のひとは必要だと思います。ちゃんと組織設計してやってくだされや。

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