2月20日 冬眠中?
淪在絶域(淪(しず)みて絶域に在り)(「浪迹叢談」)
わたしどもは社会の片隅や人里離れた地にじっとしているので、かまわないで欲しいものです。

人里離れた金太郎
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清・乾隆年間のこととして紀暁嵐が書いていることだが、嘉峪関の外の西域の地に、
有闊石徒嶺。闊石徒訳言碑也。
闊石徒嶺有り。闊石徒は訳して碑を言うなり。
「かつせきと」という山がある。現地で「かつせきと」というのは、チャイナのコトバに訳すと「碑」のことである。
この名前の由来は、唐の太宗の時、西域の高昌国を平定した侯君集の「平高昌碑」(高昌を平らぐの碑)が、この山の尾根に建っているからだ。
しかし、この碑を読んだ者はいない。
守将砌以碑石、不使人読。云、読之則風雪立至。
守将、碑石を以て砌(せい)し、人をして読ましめず。云うに、これを読まば風雪立ちどころに至る、と。
現場付近の守備隊長は、尾根にあった碑石を倒して横積みにしてしまい、誰にも読めなくした。その理由として、「この碑石の文を読みますと、たちまち暴風雪になります(。読んだ人も案内者もみな遭難してしまうんです)」と説明している。
ウソだと思うでしょう。ところが、
屡試皆不爽。
しばしば試みてみな爽(たが)わず。
何度も試しに読んでみた人がいるが、みな遭難してしまっているのだ。
故至今併無拓本。
故に今に至るも併せて拓本無かりき。
このため、現在まで、一枚も拓本が出回っていないのである。
「へー、そうなんですか。ためになります」
と驚いたふりをしたらいい気分になったみたいで、さらに教えてくれましたことには―――
カシュガルの山中に洞窟があって、その中の石壁が平らになっているところに、
有人馬像。回人相伝是漢時画也。
人馬像有り。回人相伝えてこれ漢時の画なりとす。
人とウマの画像がある。ウイグル人たちは、「これは漢の時代の画だよ」と伝えてきている。
彼らは、
頗知護惜、故歳久尚可弁。
頗る護惜を知り、故に歳久しきもなお弁ずべし。
たいへん大事に保護してきていたので、長い年月が経っているが、それでもはっきりと見ることができたのである。
漢代の画は、今となっては武梁の祠堂の壁画ぐらいですからね(←これは山東・武氏のお墓にある有名な線刻画です。一部は東京国立博物館にもあるから見に行ってみよう!)。おそらくこちらの壁画の方がより古いであろう。
ところがこの画は、近年(嘉慶年間(1796~1820)になってから、
戌卒燃火御寒、為烟気所薫、遂模糊都尽。
戌卒寒を御せんとして火を燃やし、烟気の薫ずる所と為りて、遂に模糊として都(すべ)て尽きたり。
守衛があんまり寒いので火を燃やしたとき、烟が表面をいぶしてしまって、とうとうぼんやりとして全く見られなくなってしまったのである。
ああ!
惜当時無画手槖筆其間、描摹一紙耳。
当時、画手のその間に筆を槖(たく)して、一紙に画摹する無きを惜しむのみ。
無事な時に絵描きがその洞窟まで筆を袋に入れて出かけ、一枚の紙に模写してくれなかったことを惜しむばかりである。
というように、
今人喜収羅金石書画、而不知淪在絶域、為耳目所不経見者、尚如此之多也。
今人喜びて金石書画を収羅するも、絶域に在りて淪み、耳目の見るを経ざる所と為るもの、なお此くの如くの多きを知らざるなり。
現代人(19世紀前半のやつら)は、骨董の金属器や石器、書や画を根こそぎ集めて喜んでおられるが、人跡の絶えた辺境の地にひそかに有って、耳にも目にも見られないままになっているもの(耳が見るわけないと思いますが)が、今もこんなにたくさんあることをご存じないのです。
いわんや人材をや。
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清・梁章矩「浪迹叢談」巻九より。寒くて暖房を取ろうと火を燃やして画をダメにしてしまうことがあるので、ぜひ電気代は安くしよう。・・・と言っていると、また議論も無しに原子力発電所を稼働しはじめるんですよね。