2月20日 いいこと言ってるが行動は難しい

縦風止燎(風をほしいままにして燎を止どめんとす)(「昨非録」)

崖から落ちる、うわー、たすけてーー!!!

・・・というところで目覚めるタイプの夢を昼間居眠りしているときによく見ます。もしかしたら叫んでいるかも知れないし、職場や電車の中で恥ずかしい。

ぼ、ぼく弱いので後回しにしてください・・・と言っていると最初にやられる。

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鄭有富叟、戒其隣之子、勿為竊。

すると、隣の家の子は、

吾未知竊、焉知戒。

と言って、

遂往就竊者而学焉。尽其術、帰而竊諸富叟。

叟知之、始悔前言之不慎也。

ああ。

契券所以防姦也、而啓姦者有之。桃棘所以駆鬼也、而致鬼者有之。

聖人知其然、故於怪力乱神、但不語之而已。

「論語」述而篇にいう、

子不語怪力乱神。

とあるのをそのまま引いています。

いろいろ解説しはじめるとまたキリが無いので、北宋・謝上蔡の素晴らしい解説をご紹介しておきます。

聖人語常而不語怪、語徳而不語力、語治而不語乱、語人而不語神。

のである。

さて、

而世或顕著之以示威、譬如縦風止燎、豈惟無益而已哉。

そこで、

寤崖子曰、善戒者無迹、有迹則戒之転以導之。

清の終わりのころのことでございます。

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清・劉熙載「昨非録」巻一より。戒めとかせずに見て見ぬふりして何も言わなければいい・・・という意味ではないんですね。これは実際には難しいな。

融斎先生・劉熙載、字・伯簡は江蘇・興化のひと、嘉慶十八年(1813)に生まれ、道光二十四年(1844)の進士、同治六年(1867)廣東学政を以て致仕、その後光緒六年(1880)まで上海龍門書院で経学を講じ、光緒七年(1881)、郷里に卒す。

寤崖子は晩年の自号で、「自序」にいう、

或問所以名書之義、余曰、偶然耳。過則忘之矣。抑或寤者見之謂之寤、崖者見之謂之崖矣乎。

と誤魔化していますが、「崖」に差し掛かってようやく「寤」めた、とはどういうことか。咸豊十年(1860)のアロー号事件では最後まで北京から退避せずに事務を取り続け、翌十一年には武昌・江漢書院主講として太平天国の乱に多くの教え子を喪っており、あるいは国の将来に思うところあったのかも知れません。その人となり、

貞介絶俗、学冠時人。

と評さる。

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