尸亦飛去(尸また飛び去る)(「風俗通義」)
日頃の行いに気をつけよう。

鬼の天下も明日までだぜ。
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「蜀王本紀」という漢代、あるいはそれ以前に編まれた古い伝説集があります。現在では既に散佚しているのですが、宋代に編纂された「太平御覧」に引用されて、一部だけが今も遺っている。その中に、「望帝説話」という神話が載っています。
・・・むかしむかし、蜀の地に望帝という王さまがいたそうな。
望帝積百余歳、荊有一人名鱉令。
望帝、積みて百余歳なるに、荊に一人、名を鱉令(べつれい)という有り。
望帝が年月を過ごして百何歳かになったころ、長江に下流、荊の地に名前を鱉令(べつれい)という人が住んでいた。
この人が亡くなった。
すると、
其尸亡去、荊人求之不得。
その尸、亡去し、荊人これを求むれども得ざりき。
その死体がどこかに消えてしまい、荊のひとたちはこれを探したのですが、見つからなかった。
鱉令尸随江水上至陴、遂活。与望帝相見、望帝以鱉令為相。
鱉令の尸は江水に随いて上りて陴に至り、遂に活せり。望帝と相見て、望帝鱉令を以て相と為す。
鱉令の死体は、長江に沿って、不思議なことに上流へと遡って、陴(ひ)という土地に着いて、その地で生き返ったのである。望帝と会見し、望帝はその神秘の人であるのを認識て、宰相の位に就けた。
時玉山出水、望帝不能治、使鱉令決玉山、民得安処。
時に玉山に出水し、望帝治むるあたわず、鱉令をして玉山を決せしめ、民安処を得たり。
この時、蜀の玉山で水害が起こった。望帝の技術では復旧がムリだと思われたので、帝は鱉令を派遣して、玉山付近の溜まり水を堰き止めている堤を壊して、水をひかせることした。これによって、ようやく人民たちは安んじる場所が確保できたのである。
ところで、
鱉令治水去後、望帝与其妻通。
鱉令治水のために去るの後、望帝その妻と通ず。
鱉令が治水のために出張している間に、望帝は鱉令の妻と関係を持ったのであった。
百歳超えているというのに!鬼のような人ですね。
その後、望帝は、
慚愧。自以徳薄不如鱉令、乃委国授之去。蜀人神之、尊立為王。
慚愧せり。自ら徳薄く鱉令に如かざるを以て、国を委ねてこれに授けて去りぬ。蜀人これを神とし、尊びて立てて王と為す。
自分の行為を大いに恥じて後悔した。自分の徳は薄く、鱉令にかなわないことを認め、蜀の国をこの人に委任して、放浪の旅に出てしまった。蜀の人たちは、残された鱉令を神のように扱い、王に立てて尊敬した。
ここにおいて
鱉令即位、号曰開明帝。
鱉令、位に即し、号して開明帝と曰えり。
鱉令は王位に即き、「開明帝」と名乗った。
んだそうです。
さて、現代(漢代)の淮陽太守・尹済は、
其治厳酷。
その治、厳酷なり。
その政治ぶりは厳格・残虐であった。
尹済が死ぬと、
死未及殮、怨家欲焼之、尸亦飛去。見于書伝。
死していまだ斂(おさ)めざるに、怨家これを焼かんと欲すれば、尸また飛び去れり。
死んでまだ棺に納めてもいない時に、彼に恨みを持っていた一族が押し寄せ、彼の亡骸に火をつけて燃やそうとした―――すると、亡骸は突然飛び跳ねて、どこかへ行ってしまった―――。
というのである。死体が生き返ることは時に起こり得ることらしい。
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後漢・応劭「風俗通義」怪神第九より。尹済の方は神さまには認定はされなかったみたいです。日頃の行いのせいでしょうか。
望帝は恥じて国を譲って去って行った後、ホトトギスに変化して、おのれの所為を嘆き、今も血を吐くまで鳴き続けているのだということである。