有所不臣(臣とせざるところ有り)(「後漢書」)
「俗党」だといわれると仕事しなくてよくなるみたいです。

サボって寿命まで栄養たくわえることもできる。
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漢の時代、王覇、字・儒仲というひとがいた。山西・太原の廣武の町の出身であった。
少有清節、及王莽簒位、棄冠帯、絶交宦。
少(わか)くして清節有り、王莽の簒位に及んで冠帯を棄て、交宦を絶す。
若いころから節義のさっぱりしたやつだと言われていたが、王莽が漢帝国を簒奪(紀元9年)すると、官職を示す冠や帯を棄て、役人との付き合いをすっぱり止めて郷里に帰った。
やがて後漢が建国(25年)されると、新しい王朝から召し出されました。
徴到尚書、拝称名、不称臣。
徴されて尚書に到るに、拝して名を称するも、臣を称せず。
召されて取次の役所にやってきたとき、役人に対して拝礼を行い、自分のことを本名で名乗ったが、その際、「臣」というコトバを着けなかった。
自分のことを実名で名乗るというのは、それだけでも謙譲語なのですが、自称に「臣」を着けなかった。例えば吉田茂さんなら、天皇陛下の前では、「臣・茂」と名乗るはずなのですが、単に「茂」とだけ名乗った。
「ほえほえ?」
有司問其故。
有司、その故を問う。
取次の役人が「臣」と称さない理由を訊いた。
すると、王覇は答えた、
天子有所不臣、諸侯有所不友。
天子に臣とせざるところ有り、諸侯も友とせざるところ有り。
天子さまにも臣下にしない者がおります。諸侯にも友人にできない者がおります。
「それはどんな者ですか」
儒。
儒なり。
儒学者という者たちです。
自分はそれなので、臣下になりませんので、というのである。
この噂を聞いて、大臣の侯覇が辞職願を出した。
譲位於覇。
覇に位を譲らんとす。
同じ名前の王覇に自分の職に就いてもらおうとしたのだ。
これを聞きつけて、元の太原令・閻陽が怒鳴り込んできました。
太原俗党、儒仲頗有其風。
太原に俗党あり、儒仲すこぶるその風有り。
「太原には下らんグループがおる。王儒仲はそのグループらしいところがすごくあるぞ」
どういうことでしょうか。「漢書」にいう、
太原多晋公族子孫、以詐力相傾、矜誇功名、報仇過直。
太原には晋の公族子孫多く、詐力を以て相傾け、功名を矜誇して、仇を報ずるに直に過ぐ。
太原の地は、もと春秋時代の晋の貴族たちの後裔が多い。彼らはひとを詐り欺く能力があって互いに邪魔しあい、功績や名誉を誇り合い、敵対者に復讐するに当たって感情を真っすぐに現し過ぎるのだ。
漢の時代に入ると、
号為難化、常択厳猛将、或任殺伐為威。
号して難化と為し、常に厳猛の将を択び、或いは殺伐に任せて威を為せり。
治めるのが難しいところという評価が定まり、県令には常に厳格で猛烈な武人を当ててきた。このため、時には殺したり征伐したりして威厳を示してきたのである。
太原の人たちから見れば、
父兄被誅、子弟怨憤、至告訐刺史二千石。
父兄誅せられ、子弟怨憤し、刺史・二千石を告訐(こくけつ)するに至る。
おやじや兄貴が殺されたりしているので、子どもや弟は政府に対して怨み怒りがとどまらず、ついには知事や地方官について中央に暴露情報を訴えるやつまで出る始末であった。
というのです。怪しからんやつらである。
こうして、
遂止。
遂に止む。
王覇を大臣にしようという動きは止まった。
それで、帰郷することも許された。
王覇は、
以病帰、隠居守志、茅屋蓬戸。連徴不至、以寿終。
病を以て帰り、隠居して志を茅屋蓬戸に守る。連徴も至らず、寿を以て終われり。
病気を理由にして帰郷し、それからは、茅の屋根、蓬の扉の家に隠れ住んで、天子の臣下とならないというその志を守った。何度も召されたがとうとう都には行かず、最後は寿命で亡くなった。
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「後漢書」巻八十三「逸民列伝」より。寿命を以て終われるならいいですね。ふつう仕事をしに行くのは、「ごはんを食べるため」ですが、寿命を以て終われる保証があったら仕事なんか行かない、行きません。