2月18日 春になってきました、ウキウキだ

所遇之時異(遇うところの時異なる)(「梁渓漫志」)

明日は月曜日。暖かくなってきたので、朝起きるのも楽しくなってきた・・・のではありませんか、みなさんも。

あかつきを知らないでメー。

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杜甫の「悶」(もだえ苦しむ)という詩の中に、

捲簾惟白水、隠几亦青山。

という有名な句がありますが、どこが「悶え苦しむ」なのでしょうか。

或曰、人之好悪固自不同。若使予居此、応従王逸少語、吾当卒以楽死。豈復更有悶乎。

否!

予以為不然。人心憂郁、則所触而皆悶、其心和平、則何適而非快。

青山白水、本是楽処。苟其中不快、則惨淡蒼莽、適足以増悶耳。

杜甫は、なにしろ、

感時花灑泪、恨別鳥驚心。(「春望」)

花、鳥本是平時可喜之物、而抑郁如此者、亦以触目有感、所遇之時異耳。

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宋・費兗「梁渓漫志」巻七より。わたしも現役時代は日曜日は朝から悶々とし、夜になったらもう何を見ても悶絶しそうにイヤでしたが、今は何を見ても明日も責任はないと思うとニヤニヤしてしまいます。サンデー毎日です。

補則的に数点。

※の「ある人」は、「梁渓漫志」には個人名まで挙げていませんが、宋・張邦基「墨荘漫録」巻二によれば(さい・しょう)という人の「西清詩話」という本に書いてあることなのだそうです。蔡絛は新法党の実力者、「水滸伝」の悪役・蔡京の息子ですから、その政権の転覆した後では、あちこちで悪口を言われてしまっているようです。

なお、王羲之(王逸少)の「吾、ついに楽を以て死せん」「晋書」王羲之伝に出て来る王羲之の口癖みたいなコトバですが、これは実は晋の時代に流行っており、王羲之も耽溺していた「服薬」による快楽の中で死ぬことを言っているのではないか、という説もあるそうです。

なるほど。

また、これも「梁渓漫志」では考察が中途半端ですが、上記の張邦基によれば、杜甫が何を見ても「悶え苦しんでいる」のは安禄山の反乱以降の混乱する国家を憂えているから、だそうです。杜甫のような愛国者にとっては、国家が衰亡している以上、どんなものを見ても悶えるに決まっている・・・ということは、国家が栄えているときは何を見ても楽しい? 毎日が日曜日がどうとかという個人的な問題ではないようです。杜甫にとっては。

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