所遇之時異(遇うところの時異なる)(「梁渓漫志」)
明日は月曜日。暖かくなってきたので、朝起きるのも楽しくなってきた・・・のではありませんか、みなさんも。

あかつきを知らないでメー。
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杜甫の「悶」(もだえ苦しむ)という詩の中に、
捲簾惟白水、隠几亦青山。
簾を捲けばこれ白水のみ、几に隠(よ)るもまた青山なり。
カーテンを巻き上げると(窓から見えるのは)清らかな川の流れだけ。
机に寄り掛かって(ぼけーとしていても、目に入るのは)やはり青い山ばかり。
という有名な句がありますが、どこが「悶え苦しむ」なのでしょうか。
或曰、人之好悪固自不同。若使予居此、応従王逸少語、吾当卒以楽死。豈復更有悶乎。
あるひと曰く、「人の好悪もとより自ずから同じからず。もし予をしてここに居らしむれば、まさに王逸少の語に従いて、「吾まさについに楽を以て死すべし」。あにまた更に悶有らんや」と。
ある人が言うに、※
―――人間の好き嫌いは確かにおのずと違いがあるものです。(杜甫さんはいつも憂鬱なことばかり言っているが)わたしがもしも同じ状況になったとしたら、王羲之(字・逸少)のコトバそのままに「わたしはいつか、快楽のせいで死んでしまうことだろう」と言いますね。そんな状態ではもうそれ以上、悶え苦しむことがあるでしょうか。
と。
否!
予以為不然。人心憂郁、則所触而皆悶、其心和平、則何適而非快。
予以て然らずと為す。人心の憂郁たる、すなわち触るるところにして皆悶え、その心の和平なる、則ち何ぞ適きて快に非ざらん。
わしはそうではないと思います。人の心が憂いで一杯の時は、触れるものすべてに対して悶え苦しみ、その心が和み平らいでいるときは、どんなことでも楽しくないということが無いのです。
青山白水、本是楽処。苟其中不快、則惨淡蒼莽、適足以増悶耳。
青山と白水は、もとこれ楽処なり。いやしくもその不快に中れば、惨淡にして蒼莽、適けば以て悶を増すに足るのみ。
青い山も清らかな水も、本来は楽しい場所です。しかし、もしも快くないことのある真っ最中には、みじめで空虚で寂しくて手がつけられず、何をしても悶えが増えることになるばかり。
杜甫は、なにしろ、
感時花灑泪、恨別鳥驚心。(「春望」)
時に感じては花にも泪を灌ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。
時代がよくないと感じて、花を見ても涙を流している。
人との別離がまたあるのかと、鳥の声にもびくびくしている。
と言っている人ですからね。
花、鳥本是平時可喜之物、而抑郁如此者、亦以触目有感、所遇之時異耳。
花、鳥もとこれ平時は喜ぶべきの物、しかるに抑郁することかくの如きは、また触目を以て感有るも、遇う所の時の異なれるのみ。
花や鳥は本来、平和な時には見たり聞いたりしてうれしくなるものである。それなのに、(杜甫は)憂鬱になること、これほどなのだ。目に触れるものによって生じる感情は、その時の状況の違いだけによってこのように違ってくるものなのである。
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宋・費兗「梁渓漫志」巻七より。わたしも現役時代は日曜日は朝から悶々とし、夜になったらもう何を見ても悶絶しそうにイヤでしたが、今は何を見ても明日も責任はないと思うとニヤニヤしてしまいます。サンデー毎日です。
補則的に数点。
※の「ある人」は、「梁渓漫志」には個人名まで挙げていませんが、宋・張邦基「墨荘漫録」巻二によれば蔡絛(さい・しょう)という人の「西清詩話」という本に書いてあることなのだそうです。蔡絛は新法党の実力者、「水滸伝」の悪役・蔡京の息子ですから、その政権の転覆した後では、あちこちで悪口を言われてしまっているようです。
なお、王羲之(王逸少)の「吾、ついに楽を以て死せん」は「晋書」王羲之伝に出て来る王羲之の口癖みたいなコトバですが、これは実は晋の時代に流行っており、王羲之も耽溺していた「服薬」による快楽の中で死ぬことを言っているのではないか、という説もあるそうです。
なるほど。
また、これも「梁渓漫志」では考察が中途半端ですが、上記の張邦基によれば、杜甫が何を見ても「悶え苦しんでいる」のは安禄山の反乱以降の混乱する国家を憂えているから、だそうです。杜甫のような愛国者にとっては、国家が衰亡している以上、どんなものを見ても悶えるに決まっている・・・ということは、国家が栄えているときは何を見ても楽しい? 毎日が日曜日がどうとかという個人的な問題ではないようです。杜甫にとっては。